
町田康氏の「くっすん大黒」を読んだ。
表題作のほか、「河原のアパラ」を含む中編小説集。
かのラッセル卿は、レッテル貼りがものごとの判断を狂わせることを強調し、これを排斥したが、作家にとって意味なく貼られた様々な外野からのレッテルを剥ぎ取っていくことができることが、その本質的な力の正体だと思う。
そのような意味で、町田康氏の描き出す小説世界は、そのような力を蓄えている小説だと思う。
「くっすん大黒」は、会社も辞め、酒に溺れる楠木がある日、女房にも逃げられる。立つことができない金属製の大黒のニヤニヤした顔にそこ知れぬ嫌悪感を抱き、これを不法投棄しようとするが警察官に職質されるなどなかなか上手くいかない。
金のない楠木は、後輩の菊地の部屋に転がり込むが、変なおばちゃんたちが集うアパレル店でバイトをするはめになったり、似非アーティストのドキュメント映画を手伝うはめになったり、さまざまな厄介事に巻き込まれていく…というストーリーです。
世を拗ね、あらゆる物と者を蔑視する主人公・楠木、その生き方は出たとこ勝負の成り行き任せ。時の流れに棹ささず、市井の民として逞しくも生きる、哄笑しながら生きる登場人物たちに、読み手はいつの間にか魅了され寄り添ってその不思議な世界の浸っていることに気づきます。饒舌体の文体で描かれるその世界そのものを是か非か問うことにはあまり意味がありません。
三千世界に犇めきながら生きている者たちの当たり前の姿の断片なのですから…。
饒舌しながら世間を断罪していても、それをさめた目で見ている何者かの存在があることを感じさせる作品です。
そのさめた目の存在を神としても、不条理世界の法則としても、転ぶしかない大黒としても、自分自身の存在としてもいいと思います。
後輩の菊地が楠木にあんた大黒に似てるなという気づきは、それまでの三千世界の秩序を転換して、新しい生の方向へと結実していくような予感を含んでいるような気がします。
パンクバンドのメンバー、新しい純文学の誕生などというレッテルをやすやすと剥ぎ取って、笑いとばしていく偏執的で、凡庸で、かつ狂気に寄り添う町田康という存在が、本物の姿がそこには横たわっています。
「河原のアパラ」は、ケンタッキーフライドチキン店でフォーク並びを乱す客に八つ当たりする自分がガスも使えない部屋に住むようになったのは、働いていた立ち食いうどん屋に入ってきた天田はま子が引き起こした猿騒動などに巻き込まれたせいであった。
逃亡する部屋を斡旋してくれたうどん屋の同僚五郎が金になると持ちかけてきたのは、ちょっとした知り合いで死んだ津山の遺骨を親戚に届けに行くという話で、成り行き上、遺骨搬送をすることになったが、津山の親戚筋と登場してくるのはとても怪しい人間たちであった…というストーリーです。
暗黒の沼地に、さらにドタバタという混沌を注ぎ込むような人間曼陀羅的な展開です。
肥大した自我をもてあました濃いキャラの人物たちが絡みあって一見無軌道な展開ですが、生と死が普通に隣り合っている世界を何か客観的に描いています。
フォーク並びのように、自らの意思にかかわりなく順繰りに次の生に送り込まれていく人間たちの様が滑稽でもあり、逞しくも感じます。
猿は釜茹でになり絶命するわ、天田はま子は殺されるわ、遺骨は訳のわからないジジイが撒き散らすわ、彼らは逃れることのできない因果に導かれるように生の終焉を迎えます。まったく混沌の極みです。
業の深い生を決定するのは、主人公によればフォーク並びすらも守らないような倫理観を持つその人間自身の自業自得、天罰が下るという単純明快な論理につながっています。
この作品は、一見、無軌道な生き方の人間たちを描くように装っているが、ひょっとしたら笑いを込めた倫理、人間道徳を読む者に問う作品かもしれません。

