脳溢血で意識かなくなったのですが、最初は手も足もまったく動かなくなり、記憶力や思考力も低下しておりました。因みに暗証番号系や人の名前系もダメでした。完全に人生が終わったと思いました。


痛みなどもなく、脳出血のときは身体にまったく力が入らなく、ある意味、気持ちいい感じなのですが、目覚めると今までの身体感覚を無くしておりました。


最初は東京の病院におりましたが、二週間で千葉のリハビリ科のある病院に転院。少し身体も動かせるようになり、身の回りのことができるようになりましたが、まだまだ出来ないことの方が多いです。

利き腕ですし、足ですので結構深刻な状況です。とくに歩けるようになるか難しいところです。足は立って歩けはするのですが、指が丸まったり、日によって調子が違います。


手は腕などは曲がるし、指先も真っ直ぐになるのですが、字を書いたり、箸を持ったりはできません。リハビリでどこまで回復するかです。

まさか自分がこのような事態になるとは思っていませんでした。


健康はお金は買えません。健康で日々の何気ない生活が大切なことを改めて気付かされました。


まあ、健康に気を付けていても突然なるのが脳出血ですが…。


なんか過去にも、脳出血したあとが二回あったということでした。知らないうちに、自覚症状もなかったなんて戦慄です。
八月二日に脳出血になり、三カ月間病院に入院しております。

世間は新型ウィルスの脅威に恐怖する毎日ですが、私は個人的な、生命的危機に脅えていた今夏でありました。


脳出血の経緯についてですが、その日は日曜で渋谷で遊んでおりました。渋谷で昼食に餃子を食し、ブラブラ買い物をした後、いつもの通りカラオケに行きました。自粛することもなくカラオケの個室にインしました。シドの夏恋を一曲目で気持ちよく歌い終わってドリンクバーへ。そこで身体に異変が。

まったく身体に力が入らなくなり、個室に戻り、一緒にカラオケに来てました連れに助けを求めました。

連れによると、その時点で言葉ももつれ、口元もひきつり、脳溢血だと直ぐに分かったそうです。

兎に角、急な症状の変化に一刻も早く救急車を呼んだそうです。

脳溢血だとどれだけ速く病院で処置するかで、後遺症や、命の助かることに違いがあるようです。


私は運が良かったようです。渋谷の繁華街で倒れたこと、一人じゃなかったこと、救急車で直ぐ病院運ばれたことで命が助かったようです。

一人家にいたときに倒れたら助からなかったでしょう。

私の場合は左脳からの出血でしたから、右足、右手が不自由ですがリハビリを頑張っております。
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星野智幸氏の「俺俺」(新潮文庫)を読んだ。


同作品は、第五回大江健三郎賞を受賞し、KAT-TUNの亀梨和也主演で映画化もされた小説であります。


家電量販店のカメラ売場で働く俺=永野均はマクドナルドで隣にいた人間の携帯をなりゆきで盗んでしまう。そして、その携帯の持ち主である大樹の母にオレオレ詐欺を働いてしまう。


俺が大樹であることを疑わない母から騙しとったお金を返して許してもらおうと大樹の母の住む家に向かった俺だったが、大樹の母は俺を見ても何故か大樹だとは疑わない。


それどころか、大樹の母の語る大樹の人生がまるで俺の記憶である気がしてくる。永野均という俺の存在に自問自答し、大樹である俺に苦しめられる俺は、実家へ帰り俺の存在を確認しようとするが、そこには均として生活する俺がいた。


さらに、この世界には、俺が俺であることを意識できる俺が他にもたくさんいることに気づいていくのだが…というストーリーです。

現実逃避のようにサラリーマンとして退屈で、さまざまな人間関係にも軋轢を感じながら生活している主人公が他人の携帯を盗んだことで、自分自身であることも疑わなければならない迷宮に落ち込んでしまうというお話であります。


哲学的な自我の問題を俺と設定し、非日常的な状況が現出することで非俺的な認識に至ろうとする悶絶展開でありますが、完全な自己否定=死や孤高に至らず、俺俺時代の回想という結末に作品が訴える主題の深い病巣を読み解くことも可能です。


お前はお前じゃなくてもこの世界は成りなっていくでしょう、ということをモチーフにしたカフカの「変身」のような世界観の系列にある作品だと思います。


俺と似たような多数の俺が、ワガママで、行き当たりばったりで最終的には自分が可愛く、周りの目や噂を気にし、あるいは近親憎悪を抱き、あるいはコンプレックスに身を焦がしているような現代社会を象徴するような無責任、無関心、自己中心的な俺が増殖していく社会は、果てしない闘争状態に陥り、終焉を迎えます。


それはゾンビのような感染性をもち拡散し、俺俺的なものがカタストロフィーに導かれる運命であることを作品は描き出します。他者の中に見出だす俺的なものと、俺ではないものの差異が徐々に蓄積されていくことで、社会は常に不安定となり、崩壊の要因を秘めることになります。


その社会の不安定さを担保しているのが全体的な同調や、あきらめ、見て見ぬふりができるあの人、この人の存在が当たり前のような社会システムの現出なのかもしれません。


また、それを全体主義的な恐怖と言い換えることも可能なのではないでしょうか。


自己中心的な闘争状態=俺俺時代を生き残ってきた俺が目にしている社会もまた俺俺時代にじことを繰り返す運命にある、予兆を感じさせます。


同作品が大江健三郎賞を受賞していることから、大江健三郎の師である仏文学者の渡辺一夫氏が示した「寛容は不寛容に対して不寛容であってはならぬ」という関係原則をそのまま間主観性の問題として作品の中に捉えることもできます。


排除する論理だけを尖鋭化するのではなく、寛容的社会を実現する可能性が「俺」の中に残されているのかを確認するような作品だと思います。


戦後日本の問題を内包させた大虐殺、テロが「津久井やまゆり園」で発生してしまいましたが、寛容を欠如させた肥大化した「俺」が暴走しているような事件だと悲しい思いです。