最近、「奇跡の人」のことを考える。三重苦のヘレン・ケラーとサリヴァン先生のどちらが奇跡の人かは、よく言われることだが、二人の出逢いそのこと自体が奇跡であるというのが話の結論のようなものだ。


例えば、ヘレン・ケラーとサリヴァンが、ちょっと年齢を重ねて出逢っていても、ヘレン・ケラーの感覚を使って、水の感触をリアルに脳内再生することは難しかったろう。一つ一つの機能を獲得していくのは、幾つもの困難を伴う。


サリヴァン先生の教師としての資質は、一人の少女の受難をリアルに想像できたこと、それを引き受けた資質にあると思う。


奇跡とは、その時に出逢うべきとき、出逢うところで出逢う事実にあるのかもしれない。


まあ、多くの人が奇跡の到来に気づくことなく、奇跡のそばを通り過ぎるが、わたしにもそのような機会はあるだろうかと考える。わたしにとってのサリヴァン先生はいるだろうか?


いろいろと考えると、一歩も踏み出せない気がするので、日々、周囲に気を配り、奇跡の足音、あるいは気配に耳をすますばかりである。


生きるとは、それ自体で受難であるが、瞬間、瞬間だけは自らの手に握られていると思うし、そうでありたいと希求している。


昨日は、自分で自分の爪も切れないことを再度確認した。なんでもないことが出来ないことに戸惑いもある。
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西村京太郎氏の「十津川警部 ダブル誘拐」(集英社文庫)を読んだ。


十津川警部が前代未聞の誘拐事件に遭遇する長編ミステリーである。


三月三日、ひな祭りの日に東京世田谷で一人の女の子が誘拐される。誘拐されたのは、鏑木夫妻の長女の鏑木美加でピアノ教室の帰りに何者かに誘拐されたようだ。十津川警部が現場に向かうが、犯人からの要求は、一億五百万円を小切手で用意しろ、というものだった。身代金が一億五百万円の小切手という中途半端なものであることに疑問を抱く十津川。翌日、鏑木の妻が愛車のベンツに乗り、犯人の要求する小切手を運ぶが、まんまと詐取られてしまう。美加の命は無事なのか?


美加ちゃん誘拐事件が起きた日に、北海道小樽でも同じよう誘拐事件が起きる。それも身代金の額も同じ、誘拐された本堂美加という名の七歳の少女だった。身代金が同じで、誘拐されたのが美加という同じ名前であることに翻弄される捜査本部。


そして、第三、第四の誘拐事件が起きる。


犯人の目的は、身代金だけなのか? それとも違う犯意があるのか、犯人と十津川の行き詰まる攻防が始まる…、というストーリーです。


十津川警部ものということで舞台が東京、小樽、京都など全国各地にとびます。

今回の事件は、犯人の義理がたさが致命的になったりします。


誘拐する少女たちを探す役割を引き受けた犯人の一味を追跡して、秋田の後生掛温泉も出てきます。湯治場で風情のある場所で、私も昔行ったことがあります。久し振りに温泉にでも入って、麻痺を治したいですなぁ~。
リハビリは体幹をただ鍛えるものだった。確かに体幹は弱い、力を抜くとすぐにふにゃふにゃになってしまうのだ。


力を入れられないと、足の指とか、踵に力が入らず、足を自由に動かすことができないのだ。


まあ、腹に力を余裕で入れられるようになれば、足先が丸まることもなく歩くことが可能になるだろう。変に足にストレスがかからないようにしないといけない。体幹を鍛えるのが一番大変なのだが…。


楽々箸も継続して練習している。どうしても肘に力が入り、周りから見ると苦労しながら食べているなぁ~、と見える食べ方だ。努力しながら食べているように見えるまで練習しなければいけない。


作業療法士の人も、左手でご飯を食べてみたりして経験したりしているというが無理しないでほしい。まあ、右左、両刀遣いになれば便利ではあるが…。


左手で字を書く練習もしているが、なかなか上手くはならない。元々、センスがないのではないかという、ミミズが這ったような字である。


ボールペンと、鉛筆でも字が違う。日本語は、左手で書くと難しい言語ではあるみたいだが、練習あるのみである。


リハビリは、何かを掴んだと思っても、次の日には消えていることの連続である。忍耐強く、諦めないことでいずれかたちになると思い取り組むしかない。考えるのは、あとでもいいかもしれない。