最近、「奇跡の人」のことを考える。三重苦のヘレン・ケラーとサリヴァン先生のどちらが奇跡の人かは、よく言われることだが、二人の出逢いそのこと自体が奇跡であるというのが話の結論のようなものだ。
例えば、ヘレン・ケラーとサリヴァンが、ちょっと年齢を重ねて出逢っていても、ヘレン・ケラーの感覚を使って、水の感触をリアルに脳内再生することは難しかったろう。一つ一つの機能を獲得していくのは、幾つもの困難を伴う。
サリヴァン先生の教師としての資質は、一人の少女の受難をリアルに想像できたこと、それを引き受けた資質にあると思う。
奇跡とは、その時に出逢うべきとき、出逢うところで出逢う事実にあるのかもしれない。
まあ、多くの人が奇跡の到来に気づくことなく、奇跡のそばを通り過ぎるが、わたしにもそのような機会はあるだろうかと考える。わたしにとってのサリヴァン先生はいるだろうか?
いろいろと考えると、一歩も踏み出せない気がするので、日々、周囲に気を配り、奇跡の足音、あるいは気配に耳をすますばかりである。
生きるとは、それ自体で受難であるが、瞬間、瞬間だけは自らの手に握られていると思うし、そうでありたいと希求している。
昨日は、自分で自分の爪も切れないことを再度確認した。なんでもないことが出来ないことに戸惑いもある。
例えば、ヘレン・ケラーとサリヴァンが、ちょっと年齢を重ねて出逢っていても、ヘレン・ケラーの感覚を使って、水の感触をリアルに脳内再生することは難しかったろう。一つ一つの機能を獲得していくのは、幾つもの困難を伴う。
サリヴァン先生の教師としての資質は、一人の少女の受難をリアルに想像できたこと、それを引き受けた資質にあると思う。
奇跡とは、その時に出逢うべきとき、出逢うところで出逢う事実にあるのかもしれない。
まあ、多くの人が奇跡の到来に気づくことなく、奇跡のそばを通り過ぎるが、わたしにもそのような機会はあるだろうかと考える。わたしにとってのサリヴァン先生はいるだろうか?
いろいろと考えると、一歩も踏み出せない気がするので、日々、周囲に気を配り、奇跡の足音、あるいは気配に耳をすますばかりである。
生きるとは、それ自体で受難であるが、瞬間、瞬間だけは自らの手に握られていると思うし、そうでありたいと希求している。
昨日は、自分で自分の爪も切れないことを再度確認した。なんでもないことが出来ないことに戸惑いもある。
