「薄汚いほうきで叩き出す」という表現が当地にあります。たとえば、他人の家にやってきて、ゴミを置いていくような輩がいたら、きっとものすごい勢いで叩き出すと思います。そういう時に使う表現です。

 

今お隣の国で起きていることは、まさしく「薄汚いほうきで叩き出す」だと思います。当地がやろうとしたことは、「お隣なんて、国として存在しなかったし、その言語だって、方言みたいなものだ。お隣は、当地なくして存在しえないのに、ヘンテコな極右のナチス主義がのさばってけしからん」と乗り込んで、当地流に幸せな国を作ってあげようとしたのに、お隣から想定外の猛抵抗を受けているー容赦なく叩き出されているーところです。

 

当地の方々の残念な性質と申しますか、他人に指図といいますか、他人の領域に土足で入ってくるような方々が多いのです。俺の正義はお前の正義であるべきという、正義のジャイアン主義とでも申しましょうか。お前の正義は知らん、俺の正義が一番正しいから従え、というやつです。男女問わず、一般的には「行き過ぎたおせっかい」として、社会的な極限の形が、「お前の国など存在しないから黙って言うことを聞け」という特殊作戦として顕在化します。

 

具体的な例で申しますと、気温が低い間は、帽子をかぶることが推奨されます。実際、帽子は暖かいです。でも、帽子は蒸れることもあるし、あえてかぶらずに風を感じたいときもあります。そんな時に、知らないオバサンが「帽子をかぶりなさい!」と命令口調で言うことはー真心から出た心配でしょうか、それとも、不要なおせっかいでしょうか。オバサンにとっては、こんなに寒いのだから帽子をかぶるべきで、かぶらないと病気になる、だけど、人によっては、このくらいなら問題ないからかぶらないという人もいるでしょう。また、子供を産んだばかりの若いお母さんが、新しい育児理論を研究して実践すると、そのお母さんが「昔はこうだった」と昔理論をおしつけようとします。それはおばあちゃんの真心から出た心配でもありますし、時には若いお母さんにとっての不要なおせっかいにもなり、残念ながら親子断絶につながりかねないケースもあります。

 

このような心配とおせっかいと両方に理解できる行動が、国と国との間にも存在します。

 

しかし、他人レベルから、まず個対個の敬意が存在すべきではないでしょうか。この「個に対する敬意の概念」が、当地では残念ながら欠如していることが多いなと感じます。

 

ソ連・社会主義というのは、みんなで頑張って成果を平等に分配するーというのが狙いで、ソ連の初期においては、洋服や靴までも共有すべきというような、行き過ぎた共有化の例があったそうです。これはさすがに実施不可能だったものの、住居の共有(血縁のない複数の家族が同じアパートに住む)はありました。また、「誰もが平等」は、「誰もが同じでなくてはならない」となりました。結果、他人の目を気にしながら、同時に、思い通りにならない他人に文句をつけながら、暮らすことが刷り込まれていったという点が、「個に対する敬意の欠如」の裏側にあるのではと思っています。

 

「個に対する敬意の欠如」は、「個の事情を想像する能力」とも言い換えることができます。それが欠如していることで、「相手を心配するまごころ」を装った「おせっかい」になっているのではないでしょうか。そのおせっかいが行き過ぎたとき、相手が「薄汚いほうき」を持ってくるのは、いたし方のないことではと思います。

知人のクリエイターから聞いた話です。クリエイター間で案件探しや求人に使うサイトがあり、その「脚本家募集」として提示されていた案件です。

 

「子供向けアニメーションの脚本。あらすじ:熊の親子が幸せに暮らしていたところ、ほかの動物たちが小熊の片方をそそのかし、母熊と兄熊に反抗的な態度をとるようになりました。でも、ほかの動物たちは、本当は小熊をつかって、熊を森から追い出そうとしていました。それに気が付いた母熊は、ほかの動物たちを追い返して小熊を取り戻し、親子は幸せに暮らしました」

 

注釈として、熊の親子は、「当地と、当地に近しいお隣と、お隣」を、ほかの動物たちは、「欧米諸国」をシンボライズするもの、との指定がありました。

 

これは、作戦開始前のことで、気色悪いね、という話題として聞いたものなのですが、つい最近、少し違うあらすじながら、実作品が公開されているのが分かりました。

 

…ワーニャとコーリャは仲良しの友達、ワーニャのほうが強いので、いつもコーリャを守っています。学校に入ってから、コーリャは変わってしまい、クラスも移って自分をミコーラと呼ぶように要求しました。仲良しでいられると思ったワーニャでしたが、悪いクラスメートにそそのかされたミコーラは、元のクラスメートをいじめるように…ワーニャがやめさせようとすると、ミコーラの新しいクラスメートがワーニャを責め立てます。

 

という一見子供の間での問題を描いたように見せかけ、「性悪な西側諸国が、おとなしかったお隣をそそのかして、かつての盟友たる当地を攻撃するようになった」という、当地が理解する(禁句)のストーリーを物語っているのです。そして、実際に二つの共和国がお隣から独立を望み、お隣から攻撃されたので、当地が救出に乗り出したーという経緯が説明されます。

 

この作品が子供の目に触れるかどうかは、家庭環境や学校に左右されるかと思います。最近学校では、特別軍事作戦のことを説明せよという通達がだされていると報じられています。ただし、学校でも、リベラルな空気の学校、そうでない学校がありますし、家庭も同様です。リベラルな学校では、通達にもかかわらず軍事作戦の説明はないと聞いております。そうでない学校でも、クラスメートにお隣籍の子がいたりすることで、子供ながらにプロパガンダがおかしいことを感じている子もいるようです。

 

そもそもの大義として成立していないことを、正しいかのように信じさせるには、子供への刷り込みも含め、並々ならぬ努力が必要なようです。一方、家庭としても、異なる見方があることや、大義の存在を教えていくことと並んで、そういうテーマは「自分の家の台所」でしか話してはならないことを、念押ししなくてはなりません。かつて、「反革命の自分の親を密告した少年」がソ連の英雄だった当地では、情報の共有は信頼できる人・場所に限る…が、暗黙の了解になっています。

 

テレビ、ネット公開されるアニメ、街中あらゆるところに出現するアルファベット最後のマーク、プロパガンダの手段は様々な場所で目に入ります。ほかの情報とバランスを取り、自分の頭で判断すること、また、その取り扱いには十分注意することを、子供のうちから教える「ソ連情報リテラシー」の再来を感じます。

 

 

 

最近ベルリンに脱出された有名な女性作家の方が、「恥ずかしい」ということを口にされています。自分の国が、恐ろしい行動をとってしまったことが恥ずかしい、とおっしゃるのです。

 

「恥ずかしい」という言葉は、一部の当地の方から聞きます。かつてファシストと戦って勝った国が、そのファシストと同じことをしているから、国内でも国外でもうそをついているからー、という理由です。私は彼らに共感しますし、もし仮に(憲法上はできませんが)、自分の生まれた国がそんなことをしたら、国籍放棄したくなるだろうと思います。ですから、当地や当地人を十把一絡げにして、悪の巣窟や極悪人の集団とみなして、国外にいる当地人を差別することは、非常にお門違いだと思います。

 

それと、当地人が恥を感じる気持ちに共感しますが、当地人に対し恥を強制する気持ちには、共感できません。これも有名な女性歌手が、「(当地の禁句)はよくないけれど、当地人に対し政権批判を求めるのもやめてほしい」という趣旨のことを発言して、欧米の劇場から締め出されました。私は支持する人の気持ちは理解できませんが、しかし、「支持しないことを強制すること」または「踏み絵のように、支持するか支持しないかを選択させること」は、違うのではないでしょうか。支持する・しないは、個人の自由(と責任)の範囲の問題ですし、それに対して自分がどう思うかも、自分の自由(と責任)の範囲です。

 

話はそれましたが、その行動があまりにも常識外れであるため、当地ひいては当地人のイメージはダダ下がり、かつ、常識ある当地人に対し、「恥じることを求める」風潮があるのは感じられます。しかし、当地人に対するこの「恥の強制」は、反発を生むだけです。「私は今の政権に投票していないし、行動がいいとは言わないけれど、なぜ恥を感じなくてはならないのか」という疑問を持つ人が、作戦開始数日後から出始めました。そしてその人たちは、どちらかというと作戦を支持するか、当地として仕方のなかったことだと、「70%」の是認グループに入ってしまいます。また、お隣に対する見方も、攻撃的になってくるのを、残念ながら目にします。そこに安易な愛国心高揚のためのシンボルを与えられると、こちらのほうに吸い寄せられてしまいます。

 

お隣大統領がインタビューで、スポーツや芸術界でのボイコットは、「被攻撃国の痛みは感じられないまでも、ある種の不快感を感じてほしい(そしてその理由に思いを巡らせてほしい)」という観点から必要と発言されていて、そういう理由もあるかと思いました。が、あらゆる場所から当地人を締め出せば、むしろ当地人は内へ内へとこもり、こもった中でのそれなりに快適な環境を作ってしまうのではないかとも思います。たとえば、締め出されたフィギュアスケートでは、すでに異様にメンバーが豪華な国内大会を新設していますから… 

 

この異常事態を止められるのは、当地の国民だけだとの意見もあります。そういう仕組みにはなっていない社会ですが、「70%」の意見を変えるにはむしろ、外に引っ張り出して、違う意見の存在を説明することにも、意味があるのではないでしょうか。