どうも当地の大統領以下大多数の意見として、お隣が「お隣」になることは不可であり、その願いがナチス主義なのだそうです。だから非ナチス化しなくてはならないのだそうです。お隣の言語も、歴史も、当地が管理し承認したもの以外はダメだ ということです。国名まで変えるべきなのだそうです。非常に大雑把にまとめるとそういう趣旨の記事が、大手通信局に堂々と掲載されております。記事の反応にDislikeが多いのがせめてもの救いです。お隣大統領もインタビューで発言されていましたが、当地はお隣を独立した存在として認めることができないのです。

 

当地では、「愛国心」ということが頻繁に叫ばれます。最近でも大統領府報道官と、軍隊を出している地方共和国の首長が、どっちが愛国者か(=首都で仕事をしているホワイトカラーと、現場で汗をかいている兵隊のどっちが偉いか)というしょうもない内輪もめを披露しておりました。愛国のために、オレンジと黒のリボンを身に着けるとか、今でしたらアルファベットの最後の文字を人文字で書くですとか、シンボリックな行為も用意されています。

 

「当地は強い、当地は優れている、当地は正しい」というのが、愛国者の主張で、それを表現することを「愛国心のあらわれ」と言いたいようです。しかし、本当に強くて優れているのでしょうか。どんな国にも問題はあり、良いところも悪いところもあります。当地の名誉のために言いますと、食料品の自給率は上がっていますし、素敵な服もありますし、代表的大都市に関しては近代的です。ですが発売当初からモデルチェンジをしない国産車、「無料」と言いながら実は無料ではない医療、その医療の質、落ちるロケット、半分以上輸入品の「国産」飛行機…

都市設計を通じた近代化をテーマにしているブロガーがいまして、非常に当地の地方都市をこけおろします。しかし、そこには世界に自慢できる国にしたいという願いがあり、具体的提案があり、私は彼は愛国者だと思っています。主に当地ブランドのお洋服を着こなして、英語で発信するインフルエンサーもいます。彼女も、当地の良いものを世界に発信する愛国者だと思います。今は収監されていますけれども、毒殺の危機にさらされても、公正な選挙や政治を主張し続けた活動家も(そのすべての主張には賛同できないにせよ)、愛国者だと思います。また娘の同級生のお母さんが言っていたことは、「ごみをきちんとごみ箱に捨てること」が愛国心であると。自分の国をよい方向に変えていくこと、よいことを見つけること、そういった愛国心は、素直に受け入れることができます。そして、彼らの共通点は、「賛成していない」ことです。

 

しかし当地では、多くの人々が、シンボリックな行為と、大統領の賛美を愛国心だと考えているようです。当地は強く、優れており、正しいと思うことが、愛国心だと。だからお隣も同じになるべきだ という論調は、「愛国」者心理になじみやすいようです。お隣が一緒だったころはよかった、ヨーロッパを目指して離れていったから悪い・それがナチズムだ、お隣の目を開いて改心させなければ―というロジックが成り立っているのです。そこに強い大統領が、先頭に立って、「懲らしめに行きます!」と言ってくれたのですから、よくぞ言ってくれた・やってくれた という「愛国」者は拍手喝采です。ここに、必ずしも大統領を支持しているわけではないけれども、制裁や世界での当地の評判落下を、お隣のせいだと受け止めた層が加わり、特別軍事作戦の支持率が高い原因になっているのではないでしょうか。そんな人たちが、アルファベットの最後の文字を誇りに思って利用しているようです。

 

「賛成していない」愛国者は、苦々しい思いで日々を暮らしています。そして、自分の考えを思うまま表現できないことも、苦々しさを増してくれます。

 

一方お隣は、自分の国と言語を守るという明確な目的をもって、難事に当たっています。お隣大統領がけしかけて、国民を人間の盾にしているという意見がまだ聞かれますけれども、お隣の方々が自分で言っていることは、「勝手に手前のルールを押し付ける侵入者を追い返す」という、ごくごく真っ当な主張です。これも、愛国心の表れだと思います。

当地の大統領は、記憶を正しく継承すべきだと主張してやみません。この方針は、外務省にもしっかりと伝達されておりまして、とくに終戦記念日の周辺には「記憶の正しい継承」を発信する頻度が高くなります。

 

記憶を継承すること自体は、決して悪いことではありません。ただ、その継承すべき正しい記憶の内容はいかがでしょうか。

 

大統領の言う正しい記憶というのは、1945年、ソ連がドイツファシズムに勝った、ということです。第二次世界大戦とは、連合国と枢軸国といわれる陣営の戦いだったように記憶しているのですが、大統領のおっしゃる記憶は、どうやらソ連対ドイツの対独大祖国戦争に限定されているようです。大祖国戦争ならそれでもよいのですが、どうやら大祖国戦争の勝利と、第二次世界大戦の勝利が混同されているのが気になります。はっきり申し上げますと、ソ連だけが勝った、という印象を受けます。「ソ連が」ファシズムのドイツを撃退し、「ソ連が」ベルリンまで進軍して議事堂にソ連旗を掲げたのであり、これにより「ソ連が世界をナチズムから解放した」ことになっています。

 

確かにその側面もありますので、決して反論はできませんし、「大祖国戦争」に限定するならその通りかもしれません。ですが、英国ですとか、フランスですとか、ほかにも「世界をナチズムから解放」するために尽力した国はありますし、ベルリンに旗を掲げるまでにも、ほかの国から協力を受けていますし、米国のレンドリース法の適用も受けていますし、にもかかわらず、あたかもソ連「だけ」が、ナチズムからの解放に多くの犠牲を払ったかのように語られるのが、少々不思議です。いや、「大祖国戦争」に限定すれば、ナチズムからソ連を解放したのは確かですし、数々の強制収容所の解放にもソ連は貢献しておりますので、世界の一部を解放してはいるのですが…

 

大統領のご意見に話を戻しますと、ソ連「が」解放者であり、それ以外の説はどうやら認められない模様です。独立したバルト三国などでは、第二次世界大戦におけるソ連軍の役割を再評価する機運があり、それは当地との現在の関係性を反映したものなのかもしれませんが、矢張り事実として、ソ連がバルト諸国に対し、「ナチズムからの解放」以外にも、たとえば民族独立運動の迫害、強制移住など、現地市民への弾圧の事実があったことは、否定できません。お隣についても、ナチスと協力した独立運動家がおりまして、ナチスと協力したことは汚点として認められながらも、独立運動家としては敬愛を集め、複雑に評価されています。ただこれは逆に、お隣にとってソ連は、そのころから「招かれざる客」だったことを示してもいます。欧州における1945年5月9日に至る歴史を、きれいさっぱり、「正義の味方ソ連VS悪の権化ナチス」と分けることには非常な抵抗感があるのですが、大統領以下当地外務省に至るまで、そうやって明確な線引きをしない限りは「記憶の正しい継承」とは言えないのだそうです。

 

しかしです。このソ連の英雄的側面の陰に、その当時の指導者が「ドイツ系だから」「政治的に違う意見を持っている」という理由だけで人を逮捕したり、ラーゲリに送ったり、銃殺したりという、影の記憶に光が当たることはありません。いや、10年ちょっと前までは、「懲罰大隊」という言葉が注目され映画にもなりました。これはいわゆる、犯罪者が更生のために軍に参加する形式で、一番危険な前線に、ほぼ「人間の盾」目的で送られたものです。でもこの言葉に対する関心さえも、もう消え失せました。戦争の記憶を継承するためのキーワードは、「ナチズムに勝った」「解放者ソ連」「英雄」「快挙」に限定されています。死、別離、飢え、差別といった、マイナスイメージの言葉が語られることはありません。そしてその快挙を「もう一度繰り返すことができる」というフレーズが、5月9日の近辺に市中でよく見られるようになりました。

 

ソ連は第二次世界大戦で、最も多くの戦死者を出した国です。従軍した方々がまだ現役だったころ、まだ自分で歩くことができていたころは、5月9日は同期との再会の場であり、その子供たちは周囲で見守る存在でした。直接の参加者が生きていたころは、「二度と繰り返してはならない」のニュアンスがより強く語られていたそうです。しかし…時間がたつにつれ、子供、孫の世代が「5月9日」を引き継ぐようになり、「二度と繰り返してはならない」のテーマよりも、英雄的行為の賛美に重点が置かれ、これだけが「正しい記憶」として国家元首に認められている今の事態は、「正しい記憶の継承」と言えるのでしょうか。5月9日の賑やかなお祭り騒ぎを、毎年忸怩たる思いで傍観する一部の人々は、今年は特にひっそりとすごしています。

お隣の首都近郊の複数の街で、当地軍が撤退した後の目も当てられない光景が世界中に発信されています。当地軍が何をしていたかの、明らかな証拠です。何が「高度に精確な兵器」を使用し、「民間人には危害を加えていない」のか、はっきりさせてほしいです。

 

しかし情報規制の恐ろしいところは、これが「なかったこと」にされてしまうことです。当地のTVはもとより、新聞もラジオも、この光景を伝えるところはありません。わずかにある経済紙が、間接的表現といいますか、「当地が関与したとEU側で見なされている」というような言い方で、何が起きたかをほのめかしています。正直、今の規制では、これが認められるギリギリの線だと思います(この経済紙は、先日のお隣大統領のインタビューにも記者を出していました)。

 

また、お隣はもとより、国際的報道機関も、たくさんの動画や写真を公開していますが、当地の外務省や国防省の見解は「フェイク」「加工画像」「演出」であり、当地を悪者に仕立て上げるための舞台装置であるか、お隣軍が自分でやったことだ と主張し、なんと国連安保理でこれを議題にしようともしました。ご丁寧に、どこがフェイクで加工画像で演出であるかの解説まで作って、拡散しようともしています。死体が動いたとか、そういうレベルの話です。ですが、もし仮にフェイクだとして、こんなに大規模なフェイクがどうやって作れるのでしょうか。燃えた街並み、道端の遺体、破壊された家屋、これらをいろいろな角度からとった写真やビデオが多数出回っております。すべてフェイクだとしたら、数日でこのセットを作るにはどのくらいの労力と資金が必要でしょうか。また、生き残った住民の証言も、つじつまが合うよう、よっぽどしっかりした脚本とリハーサルが必要でしょう。お隣軍が自分でやった、というのは説得力に欠けますし、住民の証言とも合いません。

 

しかし当地にいる私たちは、それを自分の目で見ていないのです。見ていないから、本当か?と言われると、本当だとは言い切れないのです。この隙を巧妙について、「フェイク」とささやき続ける当地の公的機関やマスコミに、国民は「フェイクだから」とむしろ安心感を覚えるのです。フェイクだから、当地軍は何も悪いことをしていない、むしろフェイクをわざわざ作るお隣のほうが、質が悪いーと。信じたくない気持ちも、うまく利用していると思います。だって、当地はかつて、ナチズムと戦って勝ったのであり、それが今、ナチスと同じことをしているとは、誰も信じたくないですから。ナチスはお隣でなくてはならないのですから。そのお隣のナチスを追い出すための、特別軍事作戦なのですから…