しばらく日本人と関わる機会のなかったわたしにとって、ある友人との出会いはさまざまな意味で新鮮な経験でした。
その彼女はいわゆる“よく視える”タイプの人。でも一方で、どこか見栄っ張りなところがあり、会話の中でマウント?と思うような発言もしばしばありました。
日本人ってこういう感じだったっけ?と、毎回ちょっとずつ驚かされていたのを覚えています。
ある日、彼女はこう言いました。
「うちは、(九州地方 某藩主の)戦国武将の家系なの」
ん?
その話を聞いたとき、脳裏に浮かんだのは、ヒシャクのようなものを背負った人物の姿でした。
軽装でよく動けそうな身なり。よく見ると、、あ、これは飛脚?ってやつかもしれない。
そのイメージが正しいのかはわかりません。勘違いや思い込みかもしれませんし。ただ、彼女の霊感の強さに引っ張られて、普段は視えないレベルの領域が開いてしまうのはたしかであるようです。
「〇〇家の家系に飛脚なんていたのかな、、?」
そんなことを思いつつも、黙っていました。
「うちはどう考えても、苗字からして農民の家系だと思う〜
」なんて、軽く返しておきながら。
一方で、別の少し視える友人は逆にとても謙虚な人。
けれど、その人の背後?に視えたのは、江戸時代あたりの高官のような姿をした男性でした。
現代の寺社での節分行事などで男性ゲストが豆を撒くときに着るような、立派な装束をまとっている。青というか藍色のような色が印象的。
いま放送中の大河ドラマに出てくるような武士とは少し違うけれど、文官の偉い人のような印象です。
このイメージについては、彼女には伝えました。
彼女は目に見えないことにも耳を傾けてくれる人だからです。
それに比べて、最初の彼女がもし本当に血筋を盛って話しているのだとしたら、、、。
そんなふうに自分のルーツを偽ってしまっては、ご先祖さまもきっと悲しむのではないか。なんて思ってしまいました。
強い霊感がある前者。
だからこそ、見えないものを大切にすれば、運も、助けも、周囲の反応さえも、きっと少しずつ変わってくるのに。
でも、彼女は頑固なところがあるので、それも難しいのかもしれません。
比べてしまうのは良くないですが、後者の友人の方は信心深い人です。
クリスチャンでありながら、最近は少し読経をはじめたとのことで、先日会ったらオーラ?雰囲気?も変わっていました。
そりゃー守られるわ、と納得のいく人徳のある人でもあるのです。
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大切なものは目に見えない。
この言葉の意味が少しずつ身に沁みてくるようになりました。
目に見えるものだけで判断する世界では、きっと本当の価値には触れられない。
血筋や肩書きよりも、魂が何を宿し、何を学びに来たのかを見つめていけたら、わたしたちの進む道は、もっと静かで、でも確かなものになるのだと思います。
