功徳があったこともあり、夫は次回の日本旅行時に大黒様の仏像をお迎えしたいそうです。

 

 関西のお寺で開眼済みの大黒様を売っているところがあって、そこで購入したいそうです。でも、「売っている」という表現が合うように感じる私はちょっと抵抗を感じます。 

 

夫がお迎えしたいのはおそらく仏像があった方が拝みやすいから。お札だけでは日本人ではない彼には理解しにくいようで、夫の友人が家に来たいと言っても「神殿(仏壇)を見たら引かれるんじゃない?」と断っていました。仏像があれば仏教らしいけど、お札だけでは違和感があるみたいです。 

 

私の実家には何もなかったし、そういうことは正直よくわかりません。ただ現在の仏壇は私には心地良いものに感じます。

 

周りはみんなクリスチャンなので、十字架以外のものを部屋に置いて拝んでいると引かれる可能性はあるでしょう。一方、スリランカ人の知り合いの家にはガネーシャのポスターのようなものがあって、少し祭壇っぽくなっていましたが、自分が違和感を感じなかったのは彼女が仏教徒だからでしょうか。日本独自の信仰が混ざると違って見えるのかもしれません。 

 

話は戻りますが、そのお寺でお札やお守り等を売っている人の対応がかなり感じ悪かったため、印象が悪いのです。夫は「それは売っている人であって住職ではないし、仏像は素晴らしかった。他では仏像を手に入れられなかったし、開眼してくれるところも見つからなかった」と言うのですが、私はどうも気が乗りません。仏像は美しくても、その時点でご縁がないと感じています。ましてやお世話はおそらく私になるので慎重にならざるを得ません。

 

 (ちなみに私が功徳があったと感じるのは大阪の四天王寺の大黒様と東京の浅草寺の大黒様です。浅草寺の大黒様は出かける日の朝に夢現で出てきました。こんなニヤついたような真っ黒な大黒様っているか?と思ったらそのままな大黒様がいらして驚いたということがありました。)

 

感じの悪い人がいても良いところはいくつかありましたが、例えば長野の善光寺など、周りの人たちが良い雰囲気のところはわかりやすく仏様の雰囲気も良い印象でした。そう考えるとやっぱり人も大事なのかなあと。相性や気の流れがあるのでしょうが、するならば納得してお迎えしたいのです。 

 

それで、勤行(読経)の時に、

 

「うちに大黒様をお迎えするのはいかがでしょうか」と思いながら唱えていたところ、

 

「否(いな)」という言葉が頭に浮かびました。

 

返事はないと思っていたので驚いたものの、自分でもあまり乗り気でなかったのでやっぱりなと思いました。 

 

夫にはそのことを伝えましたが、納得していないようです。聞こえたり見たりしなければ信じるのは難しいですよね。でも、相性もあるでしょうし、うちには四天王寺の大黒様の御影がありますのでそれで十分かと。お金を払えば仏像は手に入りますが、それで終わりではありません。お迎えするならば、お世話を一生やり遂げる覚悟が必要なのだろうと思います。