富士山の登山規制がどうのというニュースを見て思い出したことがあります。
これはブログを始める前に見た夢で、今も思い出せることを思うと、夢うつつで見たものなのかもしれません。
話半分で読んでいただければ、、
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富士山は人に登ってほしくない
人が沢山登るのは重い
大体60キロ(イメージ)以上ある人が一人登ると負担を感じはじめる
何百人、何千人、何万人、、、
地面を固めるように登るのがきつい
そういった人たちが沢山登る
重い、苦しい、煩わしい
そういった行為=
地下の活動、噴火を促進させる
(ドロドロ。地中のマグマが登山する人の足の響きに共鳴しているみたいな)
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言葉:
信仰の山
拝むものであって
登るものではない
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何年も前に見たのにいまだに印象に残っていることです。
映像から伝わってきたのは、あくまで当時私が感じたイメージでして、言葉も一字一句全てを思い出しているわけではありません。
山に入って修行するとか祭祀するみたいなこともあると思うので、なんでこう出たのかもわかりませんが、、、
ちょっと気になったので書いてみました。
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もう一つ。
オーストラリアにいた頃、ウルルという山がありました。
友人から登りに行こうと誘われたのですが断りました。
ウルルは地元の人たちの信仰の山で、観光客が登るのをよく思っていないと何かで知ったこともありますが、その時、アボリジニ(先住民)の人が山を尊敬し敬い奉るみたいな映像が頭に浮かんだことが気になったんです。
当時の私は頭の中で想像したものだと思っていたけれど、今思うとそうではなかったのかもしれない。
今では登山禁止になっていると思います。それを聞いてホッとしたことを覚えています。
富士山の形が変わってしまわないように、個人的には入場制限だけでなく、もっと厳しい対策をしても良いのではないかなんて思ってしまいます。残念ですけれど。
夢かうつつか富士山が噴火する映像は何度かみています。
おそらく私だけではなく、沢山みている人がいることでしょう。
でもきっと、人々の心がけと信仰次第で変えられる世界線(並行世界?)は存在すると思うんです。
今こう書いていたら、”パラドックス”という言葉が浮かびました。
意味はよくわからない。英語そのままなら”逆説”かな。
理論的には無数の可能性が存在することを示唆するけれど、私たちは一つの現実しか経験できないという逆説、、、???うーーん。
信仰の山とは。
今一度考え直してみたいものです。