私の居場所と今日一日。 -4ページ目

私の居場所と今日一日。

私の人生は死ぬまでのひまつぶし、とかってのブログに書きました。その後に私が見つけた日常の記録です。感情障害や無呼吸症候群、脳脊髄液減少症、アルコール依存症他の病を患っていますが、ブログで健康とヘルスケアを整えたいですね。


私の人生ひまつぶしです。

毎日ブログで仲間のみんなと日課の読み合わせています。

 

 

 

ひなぎくの花と緑の草

 

 

 

いつまでも恨み続ける心


 自分の幸福を壊すのは、自分に悪いことをした「嫌な人々」ではありません。

それは、悪いことを忘れないでいつまでも恨み続ける「自分の心」なのです。

あなたを攻撃したり意地悪をした人も、 やりたくてやったわけではなくて、ただ真理がわからなかったから過ちを犯したのだと思いましょう。

相手に仕返しをすることで、けっして幸福は得られません。

子供が何か過ちをしでかしても、許してあげられるように、人を恨むのではなく、 許してあげるのが賢い生き方です。



この文章は、他者への執着を解き放ち、内面の平和を取り戻すための

**「許し」**をテーマにした深い洞察です。各項目に沿って解説します。

ポイントと解説

ポイント:


不幸の源泉は「出来事」ではなく「執着」にある。


過去に起きた被害そのものよりも、それを脳内で再生し続ける「恨みの心」が、現在の自分を傷つけ続けているという指摘です。

- 無知への理解:


 相手を「悪意ある加害者」としてではなく、「真理を知らない未熟な存在(子供のような存在)」として捉え直すことで、感情の矛先を和らげます。


- 自己防衛としての許し: 


許しは相手のためにするのではなく、自分の幸福を守るために、負のエネルギーを遮断する行為です。

考察と内省

考察:


「仕返し」は一時的な快感をもたらすかもしれませんが、本質的には相手と同じ低い波動の土俵に降りることを意味します。


恨みを持ち続けることは、毒を飲みながら相手が死ぬのを待つような矛盾した苦しみです。

内省のための問い:

- 私は今日、その「嫌な人」のことを何分考えましたか? その時間は私の人生を豊かにしましたか?

- 相手を「未熟な子供」だと仮定したとき、私の心にどのような変化が生じますか?

問題と解決

- 問題: 


過去の不当な扱いに対する「被害者意識」が、現在の自分を縛り、幸福を感じる力を奪っている。


- 解決:


 「相手の行動の責任」と「自分の心の平穏」を切り離すこと。


相手を変えようとする(報復する)のではなく、自分の心の持ち方(解釈)を変えることで、過去からの支配を終わらせます。

霊的目覚めと回復への導き

霊的目覚め:


私たちは皆、学びの途上にあります。他者の過ちを「無知(アヴィディヤー)」によるものと捉えることは、慈悲の心への第一歩です。


すべての出来事を、自らの魂を磨き、より高い視座(寛容さ)を得るための試練として受け入れます。

回復への導き:


恨みを手放すことは、一度で終わる作業ではありません。


怒りが湧くたびに「私は自由になることを選ぶ」と宣言し、自分を苦しみから解放するプロセスを繰り返してください。

AA(アルコホーリクス・アノニマス)の原理とメッセージ

AAのプログラム、特に**「棚卸し(ステップ4)」と「埋め合わせ(ステップ8, 9)」、そして「平安の祈り」**に通じる考え方です。


- 憤慨(Resentment)は最大の敵: 


AAでは「憤慨」をアルコール依存症者の「ナンバーワンの敵」と呼びます。


恨みは霊的な病を引き起こし、再び飲酒へと向かわせる致命的な要因です。


- 相手も病んでいる: 


AAの基本テキストには、「相手もまた、霊的に病んでいる人間である」と考え、彼らのために「彼らも自分と同じように平安を見つけられますように」と祈るプロセスがあります。


- 平安の祈り: 


「変えられないもの(他者の過去の行動)を受け入れる落ち着き」を求める姿勢が、この文章の核心と一致します。

あなたは今、特定の誰かに対する「恨み」の感情で、心が重くなってしまっている状況でしょうか?


言葉は、他者への執着を解き放ち、自らの心の平穏を取り戻すための非常に深い洞察です。


「恨み」という重荷を下ろすための各教えの視点と、その具体的な実践法をまとめます。

1. 各宗教・思想の教え

- 仏教(慈悲と縁起)


「恨みに報いるに恨みをもってすれば、ついに恨みの解けることなし」


という『法句経』の一節が象徴的です。


相手もまた無明(真理を知らないこと)ゆえに苦しみ、過ちを犯したと捉え、慈悲の心で執着を捨てることを説きます。


- 神道(祓いと清明心)


恨みを「心の汚れ(ケガレ)」とみなします。


過去に囚われることは停滞を意味するため、水に流す(禊)ことによって、本来の清らかで明るい心(清明心)を取り戻し、今この瞬間を生きることを重視します。


- 儒教(恕と自己研鑽)


「恕(じょ)」、すなわち「自分がされたくないことは、人にもしない」という思いやりを重んじます。


恨みにエネルギーを割くよりも、自らの徳を積む(修身)ことに集中し、君子としての気品を保つことを説きます。


- キリスト教(愛と赦し)


イエスは十字架の上で


「父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか分からないのです」


と祈りました。


罪を憎んで人を憎まず、神に裁きを委ね、自分自身が神に赦されているように他者を赦すことを教えます。

2. ポイントと解説

ポイント:


恨みは「毒を飲んで、相手が死ぬのを待つ」ようなもの


恨み続けることは、相手ではなく自分自身の精神と身体を蝕みます。


解説として、このテキストは「攻撃の無力化」を提案しています。


相手を「未熟な子供」や「無知な存在」と定義し直すことで、自分の立ち位置を相手より高い精神的次元に置くことができます。

3. 考察と内省

考察:


 恨みが消えないのは、心のどこかで「正義の執行(報復)」を求めているからです。


しかし、外的な正義が果たされても、失われた時間は戻りません。


内省: 


「私はなぜ、この記憶を握りしめ続けているのか?」


「この恨みを持ち続けることで、私は今日一日、本当に幸せになれるだろうか?」


と自問してみましょう。

4. 問題と解決

- 問題: 


過去の被害体験がフラッシュバックし、怒りが再燃する。


- 解決: 


感情を否定せず認めつつも、その感情と「自分自身」を切り離す(脱フュージョン)。


「今、私は恨みを感じている」と客観視し、意識を現在の呼吸や行動へと意図的に戻すトレーニングが有効です。

5. 霊的目覚めと回復への導き

霊的な目覚めとは、「自分は被害者である」という物語から卒業することです。


すべての出来事を魂の成長のための研磨剤として捉え直したとき、相手は「嫌な人」から「自分を鍛え、許しを学ばせてくれた役者」へと変化します。


これが真の回復です。

6. AAの原理とメッセージ

AAの「12のステップ」では、

**「恨みは、アルコール依存症者にとって、第一の敵である」**

と明確に定義されています。


- 棚卸し(ステップ4): 


自分の怒りを紙に書き出し、相手の落ち度だけでなく、自分の側の「傲慢・不安・利己心」がどこにあったかを探ります。


- 祈り: 


自分を害した人のために


「彼らが私と同じように幸福でありますように」

と祈る実用的な手法を推奨します。


これは相手のためではなく、自分の心を解放するための高度な技術です。


あなたは今、この「恨み」という重荷を置くことで、どんな新しい自由を手に入れたいですか?


アルボムッレ・スマナサーラ長老の教えに基づき、ご提示いただいたテキストを多角的に紐解きます。

ポイントと解説

この教えの核心は**「怒り(ドーサ)の毒から自分を守る」**ことにあります。

- 幸福の破壊者は自分自身: 


相手の行為は過去のものですが、それを思い出し怒り続けるのは、今この瞬間に自分で自分を傷つけている状態です。


- 無明(むみょう)への理解: 


相手を「悪人」と決めつけるのではなく、「真理(理法)を知らない未熟な存在」と捉えます。


- 慈悲の実践: 


相手を許すことは相手のためではなく、自分の心を「恨み」という地獄から解放するために必要な「賢い選択」です。

考察と内省

- 考察: 


「やりたくてやったわけではない」という視点は、決定論的な諦めではなく、因縁(原因と結果)の理解です。


相手もまた、自分の衝動や環境に支配された「自由ではない存在」であると見抜く知恵が求められています。


- 内省: 


自分が今、誰かを恨んでいるとき、その感情によって最も損をしているのは誰か? 


怒りを握りしめることで、今の自分の貴重な時間をドブに捨てていないか? 


と自問してみましょう。

問題と解決

- 問題: 


執着を伴う怒り。


過去の出来事に囚われ、現在の幸福を自ら放棄していること。


- 解決: 


「放擲(ほうてき=手放すこと)」と「慈悲」。


相手を子供のように「未熟な存在」として客観視し、自分の心からその執着を切り離すこと(ヴィラガ)が解決の鍵となります。

霊的目覚めと回復への導き

- 目覚め: 


自分が「被害者」という役割に固執していることに気づくのが第一歩です。


- 回復: 


恨みを手放した瞬間、心に静寂が戻ります。


これは単なる我慢ではなく、心が「怒り」という重荷を下ろして自由になるプロセスです。

AA(アルコール・アノニマス)の

原理とメッセージ

AAの「12ステップ」や「平安の祈り」とこの教えは強く共鳴します。

- 恨みはアルコール依存症者にとって「最大の敵」: 


AAでは恨み(Resentment)を、自分が毒を飲みながら相手が死ぬのを待つようなものだと教えます。


- 変えられないものを受け入れる: 


過去の被害や他人の性格は変えられません(第一ステップ〜第三ステップ)。


変えられるのは、それに対する自分の反応(心)だけです。


- 埋め合わせと棚卸し:


 相手の落ち度を数えるのをやめ、

自分の心の平穏に責任を持つことが、霊的な回復(Spiritual Awakening)に繋がります。

この教えを実践するにあたって、

今あなたが一番「手放したい」と

感じている感情や、特定の場面はありますか?







 

ブッダの教え 一日一話 366の智慧


Ubhinnamattham carati,
Attano ca parassa ca;
Param sańkupitam ñatvā,
Yo sato upasammati. 


ご提示いただいたパーリ語の経典(『相応部』第7経などに見られる一節)は、仏教における「忍耐」と「気づき」の真髄を表しています。

【和訳】


「他者が怒っているのを知って、自ら正念(気づき)をもって静まる者は、自分と他者の両方の利益のために歩んでいるのである。」

この聖句を、これまでの鍵山秀三郎氏の教え(凡事徹底、有利な時に静かに)と結びつけながら解説します。

1. ポイントと解説

「相互利益としての静寂」

- sato(サトー): 今この瞬間の自分の状態に気づいていること(正念)。

- upasammati(ウパサンマティ): 静まる、鎮まる。


相手が怒りや負の感情をぶつけてきたとき、それに反応して怒り返すのは凡夫ですが、相手の怒りを「あぁ、相手は今苦しんでいるのだな」と客観的に認識し、自らが静寂を保つことが「非凡」な修行です。


これは自分を救うだけでなく、相手の怒りの火に油を注がないという意味で、他者をも救う「自利利他」の行為です。

2. 考察と内省

「反応」か「対応」か

- 考察: 


私たちは通常、外部からの刺激に対して「反応」してしまいます(有利なら喜び、不利なら怒る)。


しかし、この句は「気づき(sato)」というクッションを挟むことで、盲目的な反応を「賢明な対応」へと変容させるよう説いています。


- 内省: 


「私は相手の不機嫌を、自分の不機嫌の言い訳にしていないか?」


「沈黙を守ることは敗北ではなく、自分と相手の両方を守る勝利であると信じられるか?」

3. 問題と解決

- 問題:


連鎖する負のエネルギー


一人の怒りが周囲に伝染し、家庭や職場の空気が破壊されること。


- 解決:


サイレンサー(消音器)になる


自分が「静まる」ことで、負の連鎖を自分のところで食い止めます。


鍵山氏が掃除を通じて場を清めたように、私たちは「気づき」を通じて対人関係の場を清めることができます。


自分が変われば、鏡のように相手も変わらざるを得なくなります。

4. 霊的目覚めと回復への導き

「内なる観察者」の確立


霊的な目覚めとは、感情に飲み込まれている自分から、感情を眺めている「観察者の視点」へ移行することです。


相手が激昂しているとき、自分の中に静かなスペースを見つけること。


そこは、どのような嵐も届かない「魂の聖域」です。この静止点から行動することが、真の回復への導きとなります。

5. AA(アルコホーリクス・アノニマス)の原理とメッセージ

- 「一時停止」の技術:


AAの伝統的な知恵に「腹が立ったり、混乱したりした時は、まず一時停止(Pause)しなさい」というものがあります。


このパーリ語の句はその「一時停止」の霊的根拠です。


- 第10ステップの実践:


「常に自分を見張り、もし間違ったら直ちに認める」。


相手が怒っている時、自分が正論で応戦したくなっても、その衝動に気づいて静まることは、エゴによる再飲酒のトリガー(引き金)を引かないための最大の防衛策です。

- メッセージ:


「平安を保つことは、あなたが正しいことを証明するよりも、はるかにあなたの回復にとって価値がある」というメッセージです。


「有利な時に静かに、不利な時に朗らかに」という鍵山氏の言葉と、この「相手が怒るのを見て自ら静まる」というブッダの言葉は、同じ山頂を目指す異なる登山口のようです。

今、あなたの目の前で誰かが「怒り」という苦しみを抱えていたら、あなた自身の「静寂」という薬で、その場を癒やしてみてはいかがでしょうか。


 怒っている人に対して、 逆に怒らない人は自分と他人という両方に、有意義な行為をしているのです。 

 (相応部有偶品サッカ相応 
『善語勝利経』より)


『善語勝利経(ぜんごしょうりきょう)』の一節は、まさに先ほどのパーリ語聖句の核心を突いた日本語訳ですね。

「怒り」という破壊的なエネルギーに対して、「不怒(怒らないこと)」という静かなエネルギーで応じる。


これがなぜ「両者にとって有意義(勝利)」なのか、これまでの鍵山秀三郎氏の教えや精神的な回復の原理と統合して解説します。


1. ポイントと解説

「二つの勝利」

- 己への勝利:


 相手の怒りに引きずられず、自分の感情の手綱を握り続けること。これは、自分の内面の平和を守るという「自己への勝利」です。


- 他者への勝利: 


暴力や暴言で屈服させるのではなく、静寂と慈悲によって相手の怒りの火を消し止めること。


これは、相手を「怒りという苦しみ」から解放する手助けとなる「慈愛の勝利」です。

2. 考察と内省

「沈黙」は弱さか、強さか

- 考察:


 世俗的な視点では、言い返さないことは「負け」や「弱さ」に見えるかもしれません。


しかし、仏教や鍵山氏の哲学では、これを「最大級の精神的強さ」と見なします。反応を抑えるには、莫大な精神的エネルギー(内徳)が必要だからです。


- 内省: 


「私は、一時の感情の快感(言い負かすこと)のために、長期的な心の平安を犠牲にしていないか?」


「相手の怒りを、自分を磨くための『砥石』として受け止める準備ができているか?」

3. 問題と解決

- 問題:


エスカレーション(増幅)


怒りに怒りで応じると、事態は泥沼化し、修復不可能な関係の破壊を招きます。


- 解決:


非対称な対応


相手と同じ土俵(怒り)に降りないことです。


一方が「静」を保つことで、対立の構造そのものが成立しなくなります。


鍵山氏が「不利な状況ほど朗らかに」と説いたように、険悪な場面でこそ柔和な態度をとることが、最速の解決策となります。

4. 霊的目覚めと回復への導き

「慈悲のバリア」


霊的な成熟とは、相手の背後にある「痛み」が見えるようになることです。


怒っている人は、実は何かに傷つき、怯えている人でもあります。

- 目覚め: 


「この人は今、怒りという毒に侵されて苦しんでいるのだ」という視点を持つこと。


- 回復: 


自分が「反応しない」という選択を繰り返すうちに、過去のトラウマや条件付けから解放され、真に自由な魂へと回復していきます。

5. AA(アルコホーリクス・アノニマス)の原理とメッセージ

- 「憤慨は最大の敵」: 


AAの基本テキストでは、憤慨(Resentment)を、依存症者を再び飲酒へと追いやる「ナンバーワンの刺客」として警告しています。


- スピリチュアルな護身術:


 相手が怒っている時に自分が怒らないことは、単なる道徳ではなく、「命を守るための護身術」です。


自分の心に平穏(Serenity)を保つことが、今日一日をしらふで過ごすための絶対条件だからです。


- メッセージ: 


「あなたが正しいかどうかは問題ではない。あなたが平安であるかどうかが問題なのだ。


平和を選ぶことこそが、回復者の真の強さである」というメッセージです。

鍵山氏が説く「凡事徹底」とは、こうした「日常の些細な対立の中で静寂を保つ」という平凡な実践を、誰にもできないくらい徹底することでもあります。

今日、もし誰かの怒りに触れることがあっても、それは「自分と他人の両方を救うチャンス」が巡ってきたのだと考えてみてください。


その静かな振る舞いこそが、周囲を照らす「非凡な光」となります。



Namo Tassa Bhagavato ArahatoSammā Sambuddhassa. 

 

 阿羅漢であり、正自覚者であり、 福運に満ちた世尊に、 私は敬礼したてまつる。

 

これは、仏陀(釈迦牟尼仏)への敬礼を表す美しい言葉ですね。

 

 それぞれの言葉の意味と、全体としての意味を解説します。

 

 - 阿羅漢(あらかん): 

 

 仏教における最高の悟りを達成した聖者のことです。 煩悩を完全に断ち切り、解脱の境地に達した人を指します。 仏陀自身も阿羅漢です。

 

 - 正自覚者(しょうじかくしゃ): 

 

 自らの心の状態を正しく知り、悟りを開いた者という意味です。 自分の心の動きを正確に理解し、執着や煩悩から解放された状態を指します。 仏陀は、自らの悟りを正しく自覚した者として、正自覚者と呼ばれます。 

 

 - 福運に満ちた世尊(ふくうんにみちたせそん): 

 

 世尊は、尊敬すべき、世界を導く存在という意味です。 仏陀は、慈悲と智慧に満ち、人々を苦しみから救済する存在として、世尊と呼ばれます。「福運に満ちた」は、仏陀が持つ無限の功徳と、人々にもたらす幸福を強調しています。

 

 全体としての意味: 

 

 この言葉は、仏陀を、阿羅漢、正自覚者、そして福運に満ちた世尊という三つの側面から称賛し、敬礼を表しています。 これは、仏陀への深い尊敬と信仰、そして仏陀の教えへの帰依を示すものです。 仏教徒が仏陀に敬意を表す際に用いる、非常に尊崇的な表現と言えるでしょう。 まるで、仏陀の偉大さを改めて心に刻み込むような、力強い言葉ですね。

 

 

なんのために生まれて生きるのか

 

今日のお寺の言葉

 

「なんのために生まれて、何を生きていくのか?」という問いかけは、人生における根源的な問い、そして多くの人が生涯をかけて向き合うテーマですね。

 

 この問いは、私たちに自己探求を促す、非常に深い意味を持っています。

この問いに、すぐに答えが出せる人は少ないでしょう。 しかし、この問いと向き合うこと自体が、人生をより深く理解し、より充実したものにしていくための第一歩となるはずです。 

 

 この問いに答えるためには、まず自分自身について深く考える必要があります。 自分の価値観、人生観、そして本当に大切にしたいものは何かをじっくりと見つめ直すことが重要です。 過去を振り返り、これまでの経験から何を学び、何を大切にしたいのかを考え、未来への展望を描き、自分がどのような人生を生きたいのかを明確にしていく必要があります。 

 

 また、この問いは、社会との関わりについても考えるきっかけを与えてくれます。 自分が社会の中でどのような役割を果たしたいのか、社会に貢献できることは何かを考え、自分の人生と社会とのつながりを意識することで、より充実感を得られる生き方ができるようになるでしょう。 

 

 この問いに完璧な答えはありません。 人生は常に変化し、私たち自身の考え方も変化していくからです。 しかし、この問いを常に胸に留め、自分自身と向き合い続けることで、より深く自分自身を理解し、より意味のある人生を送ることができるのではないでしょうか。 今日のお寺の言葉は、私たちに人生の意味を問い続け、自分らしい生き方を見つけるよう促している、非常に重要なメッセージと言えるでしょう。

 


仏の働きは私に来ている



今日のお寺の言葉

 

「仏さまというのは、向こうから私のところへいつも来ているはたらきです」

 

この言葉は、仏の働きが、私たち自身の内面深く、常に存在していることを示唆している、とても奥深い表現ですね。

 

 「向こうから私のところへいつも来ているはたらき」という表現は、仏を、私たちの外側に存在する、何か特別な存在として捉えるのではなく、私たちの心の中に宿る、常に働きかけている力として捉えていることを示しています。

 

 これは、仏教における「仏性」の概念と通じるものがあります。 仏性とは、すべての生き物の中に本来備わっている、仏となる可能性を意味します。 この言葉は、私たち一人ひとりの内面には、悟りを開いた仏と同じ潜在能力が備わっており、その力が常に私たちを導き、支えているということを示していると言えるでしょう。 

 

 「いつも来ている」という表現からは、仏の働きが、私たちが意識していようがいまいと、常に私たちと共にあり、私たちの生き方を照らし、導いているという、静かで力強いメッセージが感じられます。 それは、私たちが悩み苦しむ時にも、喜びに満ちた時にも、常に私たちの内側に存在し、私たちを支えている力と言えるでしょう。

 

 この言葉は、仏教の教えを、抽象的な概念としてではなく、私たちの日常生活の中に、常に存在する具体的な力として捉えることを促しているように感じます。 それは、私たちが日々の生活の中で、仏の働きを感じ取り、その力に委ねながら生きていくことを促す、静かで力強いメッセージと言えるでしょう。

 

仏の願いを私のできる範囲で

 

今日のお寺の言葉

 

お寺のメッセージは、自分の欲望や我儘だけで生きていると、仏の教えや慈悲深い生き方から遠ざかり、真の幸せを見失うという戒めです。

 

 「仏の願い」とは、慈悲、利他、悟りへの道など、仏教が説く理想的な生き方です。 

 

 毎日を自分の願いだけで過ごしてしまうと、それらの教えを無視し、自己中心的な生き方になりがちであることを示唆しています。

 

 反省と、仏の教えに基づいた生き方への転換を促すメッセージと言えるでしょう。

 

 

 

聞こうとしない私にも仏の声は届いているよ

 

今日のお寺の言葉

 

「聞こうとしない私にも、仏さまの声は届いているよ」という言葉は、たとえ自分が積極的に仏教や宗教に傾倒していなくても、仏の教えや慈悲は常に自分自身に影響を与え、導いているという、深い意味を持つ表現です。 

 

 いくつかの解釈が考えられます。

 

 - 潜在意識への働きかけ: 

 

 仏の教えは、私たちの意識の表面だけでなく、潜在意識にも働きかけていると解釈できます。 普段は意識していないものの、仏の慈悲や教えは、私たちの行動や思考に無意識のうちに影響を与えている、という考え方です。 良い行いをしたり、他人を思いやる気持ちになったりするのも、その影響かもしれません。

 

 - 人生における導き: 

 

 人生の困難な局面や、迷いが生じた時、私たちは気づかないうちに仏の教えに導かれていることがあります。 それは、偶然の出来事や、他者からの助けを通して現れるかもしれません。「聞こうとしない」という意識とは別に、仏の教えは人生の道標として機能しているのです。 

 

 - 普遍的な慈悲: 

 

 仏の慈悲は、信仰の有無に関わらず、全ての人々に平等に注がれていると解釈できます。 仏は、私たちが聞こうとしないとしても、常に私たちを見守り、慈悲を注いでいる存在なのです。

 

 - 自己啓発や悟りへの道:

 

 この言葉は、自己啓発や悟りへの道程を暗示しているとも考えられます。 積極的に探求しなくても、私たちの心の中にある仏性(仏の性質)が、自然と目覚めていく過程を表しているのかもしれません。 

 

 要するに、この言葉は、仏の教えが、私たちの意識的な努力や信仰の有無に関わらず、常に私たちの生活に影響を与えているという、静かで力強いメッセージです。

 

 それは、希望と慰め、そして自らの内面を見つめ直すきっかけを与えてくれる言葉と言えるでしょう。