(ロシア病院)
大日本帝国海軍  第三火薬廠 朝来工場 砲熕谷22と
言われている建物。

舞鶴鎮守府が置かれていた砲炸薬成型などの跡地。
炸薬というのは旧日本軍の用語で、魚雷とか地雷を作る際に使われていた火薬の種類の一種。
その火薬を成型する工場だったそうです。
第三火薬廠はは当時日本海軍が、使用していた
火薬の2/3を製造していた重要な場所だそうです。

「粉薬一時置き場跡地」
「爆薬庫跡」
「砲作薬成型工場」
 を見学します。

「爆薬庫跡地」
防爆土塁で遮っています。


「ランプと倉庫の中」
倉庫の中は水がまたっていました。
外の風景が水に映っています。

392は進駐軍に割り振られた数字です。
壁は迷彩柄だったようです。
何となく残ってますね。



「粉薬一時置き場」
394の番号は敗戦後に進駐軍に接収された時に
割り当てられた数字だそうです。
この番号は占領された象徴ですね。

「砲作薬成型工場跡」

竹が綺麗に刈り取られています。
以前は鬱蒼とした竹林が廃墟感を醸し出して
いましたが、スッキリしてしました。
以前の怪しい雰囲気がなくなりました。





片面だけが開けた構造になっています。
爆破事故を想定したもので、爆風を一方向に逃して
建物の崩壊を防ぐ構造になっています。
※落書きが残念です。

火薬廠とは?
火薬や爆薬を製造していた海軍省所属の工場のことで、元々は神奈川毛県平塚市に存在したものを
その中の爆薬部という部署が昭和4年に東舞鶴市の「長浜」という地区に移転されました。
昭和12年に日中戦争が始まりました。
火薬の需要が高まり、宮城県船岡町に支廠が増設され、第一火薬廠となりました。
神奈川県平塚市が第二火薬廠
京都府舞鶴市が第三火薬廠と改称されました。
第三火薬廠は、元々は長浜にありましたが、
爆薬を保管するには危険な環境だったことや、
製造量が増えて手狭になったことで、
昭和14年に移転されたのが、
朝来工場(あせくこうじょう)というところです。

朝来という地区(ここは朝来白屋)はもともと、豊かな、農村だったそうです。
爆薬製造プラントを建築の為に、海軍によって
立ち退き命令が出されて強制的に土地を買収された
ようです。
第三火薬廠では、約5000人が働いていましたが、
この工場では数百人が働いていたんではないでしょうか。
京都市の旧制中学校の3年生~5年生が働いていたようです。(年齢で15歳から17歳)
この辺りは豪雪地帯のため、極寒の中、劣悪な
労働環境で働いていたようです。
辛かったでしょうね。











「消火栓」
防火対策で設置されています