ブログネタ:死刑について考えてみる
参加中別に人道的見地からではなく、人間のすることであるから、万一の『冤罪』が恐い。
実際、戦後も『死刑判決』が『冤罪』であった事件がいくつもあるし、現在も係争中の事件もある。
死んだ方が世間のためになるヤツがいるとは思うが、『無実』の『人間』を『死刑』にしたら誰が責任を取るのか?
『死刑判決』を出した裁判官だけでなく、検察官だけでもない。
彼等に、税金から給与を支払っている、納税者、つまり、国民全体の責任でもある。
来年から始まる、『裁判員制度』になれば、さらに『死刑判決』は身近で、深刻な問題になるだろう。
もし、あなたが『裁判員』になって、『死刑判決』を出して、『死刑執行後』に『冤罪』が判明したとしたら、『死刑判決』を出した『裁判員』だって、同罪だ。
立派な、『殺人者』の仲間入りだ。
もちろん、法的な責任は追求されないだろうが、道義的責任はある。
例え千人の悪者を死刑にしたとしても、その中に一人でも無実の人間が混ざっていたとしたら、それは法治国家の『死刑制度』ではなく、法治国家による『虐殺』だ。
運が悪ければ、来年あたりから、『死刑判決』の判断を巡って苦しむ人が増えるだろう。
もちろん、『死刑』を廃止するなら、その代りに『終身刑』の導入が必要だし、被害者家族への金銭的保障だけでなく、継続的な心理的ケアも考えなければならないだろう。
『死刑』になるような悪人に、そんなに税金を使う必要があるか?と言われるかも知れないが、十分に価値があると思う。
それは、どうして、そのような犯罪者が出来てしまったかを、徹底的に調査することができるからだ。
『重犯罪者』は、心理学的、医学的、その他の分野でも、貴重な研究材料であり、フィードバックすれば、『犯罪の抑止』や『犯罪の予想』に、必ず役立つはずだ。
あるいは、『終身刑』を受けた犯罪者には、死亡時に臓器提供を無条件で義務づけるのも一つの案だろう。
ある意味、簡単に『縛り首』にされて終わりになる方が、『死刑囚』も楽だろう。
それよりは、生涯刑務所の閉じこめられて、無為に過ごす『終身刑』の方が、残虐な刑罰かも知れない。