ズキュン!ズキュン!の音が、自分の鬱屈をプチッ...プチッ...と潰していくような気分になれて、いい。
こういう感動を人に伝えたい時、音楽のことや楽器のこととかもっと知ってたらな...って思う。
まじで分からないし...
でもこうやってちゃんと、人がつくった音楽が自分を救ってくれるのは何年経っても変わらないし間違いない。
これは無知が生み出した寓話でしかないのだけど、例えば日本語の「しねころす」が憎悪や怨念がたっぷり込められているように感じるのに対して、洋楽の「KILL」は何かもっとこう、遠くの死を連想させるというか、死に込められた感情が分からない(英語が分からないため)分、もう少しライトにカタルシスを感じることができる。これが日本とアメリカの距離、なんだな。
タイトルはなんだって話なんですけど、
なんでもかんでも偶像崇拝みたいなスタンス、
偶像崇拝崇拝、みたいな、
あれがすごく息が詰まってしまいますという話。
もちろん、人間だから最高!大好き!信仰!って気持ちの日もあれば、そうじゃない日もあるだろう。毎日毎朝毎昼毎晩、自分が愛しているものを同じスタンスで愛しているか、と問われたら迷いなく首を縦に振れる人がいるだろうか。
ただ、それ自体にNOまくらを置いておこうって話じゃない。
多分、偶像崇拝が嫌なんじゃなくて
偶像崇拝こそが絶対愛の自己表現になる「偶像崇拝崇拝」が嫌なんだ。
それでもって、偶像側が偶像崇拝崇拝しか認めない風潮があったりするのもなんか、嫌だ。
多様性があって然り、色とりどりの文化で彩られた愛というものは、
それ自体は、素敵なものだと思う。
だからこそ愛は、生活を豊かにしてくれるものじゃないとっていうのが根底にある。
何が愛かとか、その人自身にしか知り得ないことを他人が口出すことじゃないと思っている。ましてや、愛は押し付け合うものじゃなくて探り合うものだし。なんだし。
ムシュウ、とか言っておきながら焼きたてのピッツァが如くにおいたつ内容になってしまった。
どうか未来で黒歴史のトラウマになっていてくれ。
本当はもっと、過去のブログを読んだ上で今の挫・人間がめちゃくちゃかっこいいんだろうなと感じた話とか、週末に飛び込みで会社にきたおばあちゃんの話とか、スタッフさんがメールで送ってくれる雪の日のエピソードに癒された話とか、色々書きたかったというか書きたいのですが、多分それらは忘れずにずっと心にあるので、大丈夫。
おしまい。