

むかし、宮崎県の中程に、薩摩藩・筆頭分家としての「佐土原藩」という
小藩がありました。幕末の戊辰戦争に於いては官軍・先鋒(とても名誉
なこと)として、真っ先に江戸に駆け上りました。
石高は3万石と大したことはなく、又、分家ではありますが、その実力は
なかなかのモノがあったようです。それは、時代が下がり、昭和の御世
にあっても、今上陛下の妹君である清宮貴子内親王の降嫁先が「佐土
原藩」で有ることからも、ご理解できるでしょう。夫の島津久永氏は香淳
皇后(昭和天皇妃。本名:良子)の従兄弟で、今上陛下のご学友です
(尚、常陸宮の華子妃殿下は、津軽・弘前藩主の子孫)。
この時は、宮崎・鹿児島、両県あげての大祝賀ムードだったと報道され
ております。
サテ、維新が成就し明治新政府は、功績のあった諸藩に慰労金を贈り
ました。使い道は自由です。 佐土原藩も受領し、そこで、英邁な藩主
(島津忠寛公)は、そのお金を、次の時代を背負う人材育成のために使
いました。具体的には、藩内の各分野から俊英8名を選抜し、アメリカに
6~7年、留学させることにしたのです。明治維新の翌年と翌々年にかけ
て2班に分かれて送り出しました。
正に画期的な出来事であり、大藩でも為し得なかった壮挙にして、当時
の教育界に衝撃を与えました。かの岩倉具視が54名の留学生を引率
した、明治5年の米国留学よりも早かったのですから。
木脇良(祖母の父)もその一人で、明治3年7月、25才の若者はアメリカ
で医学研鑽すべく、大いなる志を抱き、勇躍、太平洋の波頭を越えてい
きました。しかし3年後、木脇だけは、明治新政府の依頼(or指示)により、
西洋医学のメッカ、ドイツ(当時はプロシア)のライプチッヒ医科大学(明治
近代医学の師、ベルツ博士はこの大学出身)に留学することとなり、今度
は大西洋を渡ったのです。
ここに『鶴城遺芳』なる冊子があります(祖母からもらいました。鶴城とは、
佐土原の城を鶴城と称していたから)。終戦直後の昭和24年、佐土原町
の有志が米国留学80周年を記念して、発刊したものです。
その木脇良の項には、「幼にして穎悟、神童の称あり、明治3年米国に留
学し、それよりドイツに渡りて医学を研鑽す。同11年に帰朝。 尚、解剖
学の権威にして、当時『木脇の解剖図』は特に着色に依りて解説し、大に
日本の医学界に認められたものである・・・」と記載されています。
ここに『木脇の解剖図』とは、帰朝4年後の明治15年(16年の鹿鳴館より
早くに)に発刊された『解剖全書』(木脇著)を指します(この書は昭和の初
め頃まで日本中で使われていた、とは祖母の話です)。
又、この『遺芳』の発行時は、まだ戦後のドサクサ時代であり、東京にいた
祖母の所には何の連絡もありませんでした。祖母は「もし私の所に問い合
わせがきていたら、色々お話出来たのに」と大変残念がっておりました。
(以下、続く)
<写真は渡米前、浅草公園の写真館で撮ったもの。向かって右が木脇>









