薬石のブログ

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むかし、宮崎県の中程に、薩摩藩・筆頭分家としての「佐土原藩」という
小藩がありました。幕末の戊辰戦争に於いては官軍・先鋒(とても名誉
なこと)として、真っ先に江戸に駆け上りました。
石高は3万石と大したことはなく、又、分家ではありますが、その実力は
なかなかのモノがあったようです。それは、時代が下がり、昭和の御世
にあっても、今上陛下の妹君である清宮貴子内親王の降嫁先が「佐土
原藩」で有ることからも、ご理解できるでしょう。夫の島津久永氏は香淳
皇后(昭和天皇妃。本名:良子)の従兄弟で、今上陛下のご学友です 
(尚、常陸宮の華子妃殿下は、津軽・弘前藩主の子孫)。
この時は、宮崎・鹿児島、両県あげての大祝賀ムードだったと報道され
ております。

サテ、維新が成就し明治新政府は、功績のあった諸藩に慰労金を贈り
ました。使い道は自由です。 佐土原藩も受領し、そこで、英邁な藩主
(島津忠寛公)は、そのお金を、次の時代を背負う人材育成のために使
いました。具体的には、藩内の各分野から俊英8名を選抜し、アメリカに
6~7年、留学させることにしたのです。明治維新の翌年と翌々年にかけ
て2班に分かれて送り出しました。
正に画期的な出来事であり、大藩でも為し得なかった壮挙にして、当時
の教育界に衝撃を与えました。かの岩倉具視が54名の留学生を引率
した、明治5年の米国留学よりも早かったのですから。

木脇良(祖母の父)もその一人で、明治3年7月、25才の若者はアメリカ
で医学研鑽すべく、大いなる志を抱き、勇躍、太平洋の波頭を越えてい
きました。しかし3年後、木脇だけは、明治新政府の依頼(or指示)により、
西洋医学のメッカ、ドイツ(当時はプロシア)のライプチッヒ医科大学(明治
近代医学の師、ベルツ博士はこの大学出身)に留学することとなり、今度
は大西洋を渡ったのです。

ここに『鶴城遺芳』なる冊子があります(祖母からもらいました。鶴城とは、
佐土原の城を鶴城と称していたから)。終戦直後の昭和24年、佐土原町
の有志が米国留学80周年を記念して、発刊したものです。
その木脇良の項には、「幼にして穎悟、神童の称あり、明治3年米国に留
学し、それよりドイツに渡りて医学を研鑽す。同11年に帰朝。 尚、解剖
学の権威にして、当時『木脇の解剖図』は特に着色に依りて解説し、大に
日本の医学界に認められたものである・・・」と記載されています。
ここに『木脇の解剖図』とは、帰朝4年後の明治15年(16年の鹿鳴館より
早くに)に発刊された『解剖全書』(木脇著)を指します(この書は昭和の初
め頃まで日本中で使われていた、とは祖母の話です)。
又、この『遺芳』の発行時は、まだ戦後のドサクサ時代であり、東京にいた
祖母の所には何の連絡もありませんでした。祖母は「もし私の所に問い合
わせがきていたら、色々お話出来たのに」と大変残念がっておりました。

 (以下、続く) 

 <写真は渡米前、浅草公園の写真館で撮ったもの。向かって右が木脇>
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前回に続き、明治のお話です。

明治の諸事多難のおり、「ニコポン首相」と言われた傑物がおります。
ニコポンとは「ニコニコしながら相手の肩をポンと叩き、親しげにするこ
とで人を懐柔したり、人に物を頼むという処世術の一つである」と言わ
れ、余り良い意味では使われないようですが、人をまとめ動かすリー
ダーに取っては、大切な処世の術と思えます。「人たらし」と言われな
がらも天下を掌握した太閤秀吉を見れば、良く理解できましょう。
ニコポン首相とは 「桂 太郎」その人で、早速wikiを見れば、

『桂 太郎(かつら たろう)。1848年(弘化4年)~1913年(大正2年)
は、日本の武士、陸軍軍人、政治家、元老。
階級は陸軍大将(元帥贈号の内示を固辞)。位階は従一位。
勲等は大勲位。功級は功三級。爵位は公爵。
台湾総督(第2代)、陸軍大臣(第10・11・12・13代)、内閣総理大
臣(第11・13・15代)、内務大臣(第22代)、文部大臣(第23代)、
大蔵大臣(第13代)、貴族院議員、内大臣、外務大臣(第25代)な
どを歴任した。
長州藩士であり、戊辰戦争に参加し、明治維新後、ドイツへ留学。
帰国後は山縣有朋の下で軍制を学んで陸軍次官、第3師団長、台
湾総督を歴任した後、第3次伊藤内閣・第1次大隈内閣・第2次山縣
内閣・第4次伊藤内閣で陸軍大臣をつとめた。
1901年(明治34年)、首相に就任。日英同盟を締結し、日露戦争で
日本を勝利に導いた。
西園寺公望と交代で首相を務め「桂園時代」と呼ばれ、総理在職日数
2886日は佐藤栄作を凌ぎ、歴代1位』・・・
とあり、勲等・名誉・位階・官職を総ナメです。

何と言っても、日英同盟締結(あの、7つの海に君臨した世界に冠たる
大英帝国が、唯一、対等な同盟を結んだのが、この日英同盟)と、ボロ
ボロになりながらも、日露戦争を勝利に導いたのが最大の功績です。
元勲・山縣有朋(東京の椿山荘は山縣の別邸)に匹敵します。

桂ほどの人物なら、親友もさぞや多いことでしょう。
そのウチの一人を、私は明確に指摘できます。
その名は、「キ・ワ・キ リョウ」で「木脇 良」と申します。
そうです。木脇の一員です(笑) 
薩摩(木脇)と長州(桂)は本来、仲が悪いのですが、にもかかわらず、何
ゆえ親友関係になり得たのか、と申せば、その鍵はプロシア(ドイツ)に有
るのです。

 (以下、続きは後日に) 
 久しぶりの更新です^^;

皆様は池田謙斎ってご存じでしょうか?
幕府出身の医師ですが、謙斎の才能に惚れ込んだ明治新
政府が登用し、期待に応えて謙斎は、黎明期の西洋医学
発展に多大な貢献を為しました。
Wikiには、
『池田 謙斎<いけだけんさい、天保12年生~大正7年(19
18年)死去>は明治時代の医者で、日本の近代医学の礎
を築いた人物。
1841年、入沢健蔵の次男として新潟県に生まれる。その後、
当時幕府付の医員であった池田多仲の養子となり、「適塾」
へ入学し、1862年に西洋医学所へ入学した。
1864年、長崎の精得館で邂逅したオランダの医学者ボード
インに師事する。1868年(明治元年)、江戸に戻った後は
小典医として医業に従事。
1870年よりベルリン大学へ留学、1876年に帰国し、陸軍軍
医監、三等侍医、東京医学校長を経て、翌年1877年には、
医学校と東京開成学校の統合により設立された東京大学の
初代医学部綜理に就任(~1881年頃)した。
1888年に日本では初となる医学博士号を受けた。1898年
には男爵の爵位が授けられ華族に列し、1902年には宮中
顧問官となる。戊辰戦争、西南戦争、日清戦争などでは従
軍医として活躍した』と、あります。
興味のある方は、長谷川つとむ著『東京帝大医学部総理 
池田謙斎伝』(近代医学の先駆者 波乱の人生! 攘夷
少年がやがてドイツ医学を学び、初代の東京帝国大学医学
部総理となるまでを描く、感動の物語!)
などをご覧下さい。

サテ、なにゆえ、池田謙斎のことをブログに書くのかと言えば、
私と、世にも不思議な因縁話が有るからです。
この詳細については、後日記していこうと思います<関心の
ある方は、それまで、暫し待たれよ(笑)>

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    <今後の記載予定>
ブログの更新が思うように進みません。 
当初、内外の政治・経済について、隠されたことも含め色々
書いていくつもりでしたが、ある尊敬する人から、ホントの事
を書き過ぎると無用な摩擦を呼ぶ,と助言され,以降、控える
ようになりました。このため更新もママならない訳です(*_*)  
それで、無難な先祖の事などを書きまして、一応、父方の変
わった先祖話(笑)は記載済なので、今後は母方の先祖
の「木脇氏」の話を記していこうと思います(敬愛して已ま
ない祖母から、ナゼか私にだけ伝えられた一族の物語)。
その伏線として、「明治の偉人:池田謙斎」 「佐土原藩と
島津貴子さん(清宮内親王)」 「日露戦争時の桂太郎
首相」 「世にも不思議な、決してあり得ない奇跡の出会い」
等を順繰りに書いていくつもりです。
主に、曾祖父に関わるお話です。

木脇氏は、代々、佐土原藩(薩摩藩筆頭分家)の御
殿医頭(殿様の侍医長)の家系でした。ルーツは、西暦
1198年、源頼朝より、日向(宮崎)の地頭に任じられた
伊豆の豪族・伊東(工藤)氏で(八男が日向赴任)、
後年、島津氏との抗争に敗れ、島津の軍門に下りました
(今も木脇城の遺跡あり)。同族の伊東氏が、江戸期末
まで宮崎南部の飫肥(オビ。現在の日南市)伊東藩とし
て存続しました(明治期、子爵に)。
祖母の話によりますと、木脇一族は『 家訓 』として、とに
かく,【 医は仁術 】を実践し,善行・積善に努めたそうです
(後年、日経新聞 「私の履歴書」 に,人間国宝の野村万蔵
氏が、金もなかった3才の時、『木脇先生に無償で命を助
けられた。正に現代の【赤ヒゲ】です』、との掲載あり)。
私の小学生時分には、祖母が、祖父の木脇文節(つまり、
私の曾々祖父。戒名は『法雲院文翁道節居士』 )に連
れられ県内を歩くと、文節様の孫が来た、と各地で大歓迎
された事を、つい昨日のように話してくれたものです。
文節の墓は何故か、日向市細島と宮崎市佐土原の2カ
所にあります。大学1年の夏、ひとりで初めて母方の故地
宮崎に下り、祖母の細々とした記憶を頼りに、やっとの思い
で2つの墓所を探し当てました。
何れも苔むし倒れ朽ち果てた、文節たち祖先の墓石と初め
て対面した際は、線香の煙と共に哀れを催し、般若心経を
唱えながらも、しばしの落涙を禁ずることは出来ませんでし
た<正に、「夏草やツワモノどもの夢の後」の情景>。 
私が適当に察するに、文節より2~3代前の先祖が、恐ら
く、悪業をやらかしたのでは無いか、と想像します。このた
め、子孫への余殃(ヨオウ:祖先の悪事の報いとして7代子
孫にまでも祟る災難)を恐れ、以降の先祖は善行を尽くし
たのではなかろうか、と? <故人曰く、「陰徳あれば陽報
あり。積善の家には必ず余慶あり、積不善の家には必ず余
殃あり」と>。

その木脇氏も母系の私を以って実質、オシマイと相成ります
<もしや私が7代目で、余殃の完成か?(爆)>。 
父系は既に絶家しており、ゆえに、今のウチに、木脇の記録
を留めておかねば、誰知ることなく、歴史の彼方に追いやら
れ埋没してしまいます。これは、残された最後の子孫として
の私の義務であり責務です。
あと何年生きられるか分からず<当人は、90までカクシャク
としてピンピン生きるつもりですが、寿命ばかりは誰にも分
かりません(笑)>、ですので、先祖の遺徳を一番良く知る
私が、記録保持に努めなくてはならないと思っています。
当人とすれば、有終の美を飾って幕引とせねば、あの世で、
一族に顔向けできない道理です(笑) 
後世,歴史の好事家が,ドイツのライプチッヒ医科大学あたり
で,木脇の業績を発掘してくれるかも知れません。ここでの
記述はその一助にでもなれば,との微かな期待でもあります。
つまらない話かも知れませんが、今まで歴史に登場しなかっ
た、明治初年の「万里の波濤を越えた」お話,でもあります
ので、しばらく、お付き合い下されば幸いです<(__)>
 
マ~ こんな話を綴っていくつもりです。
実は、秋田の姉に、木脇の歴史をブログに記すつもりだ、と
話したところ、余り自慢話はしない方が良いわよ、と釘をささ
れてしまいました。私としては、その点も十分踏まえ、事実を
淡々と記していければ、と思います<もし、自惚れ話と受け
取られてしまいましたら、お許しの程 m(_ _)m >。
又、祖母の手持ち資料は今次大戦でことごとく灰燼に帰し、
わずかな写真くらいしか残っておらず<その中には、東京・
本所緑町(国技館の近く)の邸内の池で、釣りをしている書
生さんの面白い写真なども>、全ては祖母から聞いた記憶
であり、正確さに欠けるかも知れません。その点、ご了承下
さい。

ついでに、母の戒名(あの世での正式名)は「華明院仁慈
脇光大姉」と言いますが、「脇光」の脇は無論、木脇一族を、
光は、俗名:光子から取りました<母の遺言で私が命名し
ました(^_^;)  親族からは結構、好評です。でも、坊さん
が知ったら怒るだろうな~(爆) 同じく、遺影も希望通り、
母の20才の写真を用いました>。
なお、木脇一族の特長は、中年以降、瞼のしたに、クッキリと
クマが出来ます。あまり、かっこ良いものではありません(笑)


写真1枚目は母の葬儀写真。

2枚目の「木脇氏先祖代々之墓」の裏面には、施主「木脇
良太郎」とあり、左脇にあるのが文節の墓です。高さは1m
ほどあるので、「先祖代々」の石碑は優に3mは超えるでし
ょうか? とにかく圧倒されるほどの巨大さでした。
でも、最早、この光景を目にすることはありません。25年ほど
前、遠縁の爺さんが、この有様は忍びない、と供養のうえ、
撤去してしまったからです。

3枚目は、邸内の池で、釣りをしている書生さん。


<後記>
この項に関し、2014年2月24日付け日記に、新た
に『木脇氏 先祖代々之墓』としてアップしておきました。









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前回、秋田の祖父は「呉服商」とお話しました。
その際、商売道具として写真にあるようなカラーの「紫根染パンフレット」
を用いました。考えてみますと、これは、当時としては、とても画期的でハ
イカラな販促ツールと思えます。
何しろモノクロが当たり前の時代、しかも雪に半年は閉じこめられ、鉄道も
開通していなかった秋田の山中の田舎町にあって、カラーのパンフレット
など、地元の人達にとっては見るも初めてで、恐らく度肝を抜かれたこと
でしょう。人によっては、呉服より、このカラーのパンフレットを欲しがったに
相違ありません(笑) 
祖父の商売のアイデアとセンスが光ります<何で、私に隔世遺伝してくれ
なかったんだろう!(笑) >。 これも、霊能修行で大都会・東京に通っ
た賜でしょう(都会ではカラー広告が普及し始めた頃)。
「角昌呉服店」は、東北北部では結構知られた存在だったそうですが、祖
父が死に、後を次いだ長男以降、時代の推移もあってかウダツがあがり
ません(*_*) 

ところで去る4月、秋田の実姉が我が家(大阪)に滞在しましたが、その時
のお話です。
以前、姉が、紫根染に興味を持ち、当時、伝統工芸士(秋田県指定の無
形文化財)の栗山文一郎さんの所に話を聞きに行ったそうです。
その際、「私は角昌の孫なんです」と伝えますと、栗山さんはビックリして、
「実はね~松五郎さんの奥さん、つまり貴女のお祖母さんは、紫根染の名
手だったんですよ!」と聞かされて、大いに感激した、と言う話をしてくれま
した。つまり、角昌呉服店は夫婦二人三脚で繁昌していたわけですね。


<紫根染を詳しく>
紫根染(戦後すぐ、国の無形文化財に)は、秋田県鹿角地方に産する野
生のムラサキやアカネの根を染料に使い、古代紫(鎌倉時代から続く)と
も云われている鹿角の文化の古さを代表する染色の技法であり、全国的
にみても鹿角地方にのみ伝承され続けてきた秘法と言える。
紫根は殺菌性が強く、伝染病予防効果に勝れていること、決して変色し
ないこと、着物や夜具は湿気を呼ばず、身に着けると病気にならないとか、
難病を防ぐと云われた。特に痔・肺病・くさ・瘡などには効果があると口伝
され(紫根染のシーツはダニなどの虫も避ける)、こうした効果を利用して、
湯治の人に湯見舞として紫根染を贈ると云う風習もあった(華岡青洲の作
った痔の妙薬「紫雲膏」の主原料は紫根である)。
三越呉服店名産品陳列会に於いても、夜具・布団・襦袢・下着用として
好評を博した。そして、秋田県の各種競技会に出品して、幾度となく入賞
するなどして、鹿角の紫根染は秋田県もしくは東北地方の特産品として名
声を高めた(江戸時代は、南部藩が保護・普及したので、「南部染」とも)。
近年は主に羽二重などを使い、高級反物として知られている。
現在は、手間(人手)と時間がかかり過ぎることや、原料のムラサキ・アカネ
の入手難から、染色の技法を継続していくことははなはだ困難な状況にな
り、一部でしか行われていない(そのため高価です)。
ただ、とても優雅で気品があり、長く使用できるところから、今でも根強いフ
アンに支えられているようです。
有名なところでは、盛岡・紺屋町の「草紫堂」さんが知られています(二枚
目の写真は草紫堂さんのパンフレット。私のセミナーの先生から、先日頂戴
しました)。


<写真の文字>
製造発売元
角昌商店 ●●松五郎(父方の祖父名)
陸中国 鹿角郡 花輪町 
鹿角特産 紫根染

宮内省お買上げの光栄を賜る
御大礼奉祝の為 陸軍より献上したる御太刀装束品 謹んで染めの
 大栄を蒙る 
立太子礼奉祝の為 陸海軍より献上したる御太刀装束品 謹んで染
 めの大栄を蒙る 
於 奥羽六県連合共進会賞牌を受く



私の父方の祖父は超能力(霊能力)者でした。
秋田県の山中の町で、呉服屋を営んでおりました。ソコソコ成
功したようで、製造扱い品の「紫根染め」が宮内庁に納品され
たり、東北六県連合共進会の賞牌を受けたり、郡の繊維協会
の理事長なんかも務めていたみたいです。
なかなか進取の精神に富んだ人物だったらしく(私の産まれる
前に死去)、都会から旅人がやってくると、何日も自宅に逗留し
てもらい、中央の話(情報)を聞くのを楽しみにしておりました。
又、店先に、当時、最先端の情報機器である短波ラジオ(笑)
を置き、株投資などもしていたそうです。

大正から昭和の初めに掛けては、日本中が一種の霊能力・超
能力・神霊ブームであり、多くの新興宗教や心(神)霊術者が
現れました。祖父も、大変興味を持ち、東京での霊能力養成
講座みたいなものに積極的に参加し、時には、1週間から1ヶ
月も泊まり込んだ程の熱心さでした。
その結果、「大霊道霊○術」の極意をマスターしました。その時、
マスターした人は二人で、もう一人は東京で、霊能治療院のよ
うなものを開業したそうです<この人が、私の父と母を引き合わ
せたのですから、世の中はそれなりに面白いです(笑) >。
祖父は、呉服屋の本業があるので、身につけた霊能力は専ら、
家族や友人・知人のみに留めておりました。

サテ、昔、父が胃潰瘍になり、日本医大で胃の2/3の切除手
術を受けました。手術は無事に終わりましたが、その際、執刀
医が母に、「お宅のご主人は、以前、腹膜などをしましたね?」
と問い、母は全く記憶にないので「いいえ、主人からはそのよう
な話は一切聞いておりません」と応えたところ、「それはヘンだ
な~!? 確かに開腹して癒着を治療した痕が見られるのだが
な~」と不思議がっていたそうです。
母は帰宅後、ふと、あることを思い出したのです。
それは、父が若い頃、原因不明の難病にかかり、万策つきて、
どうせ死ぬのなら、東京ではなく、故郷の秋田で死にたい、と言
うことになり国に帰りました。秋田では、祖父が毎日、朝夕1時
間ばかり、父のお腹の上に手を当てて施術してくれたそうです。
すると、みるみる回復し、一ヶ月ばかりで完治し、無事、東京に
戻られた、と言うものです。そして母は、執刀医の言う「癒着治
療痕跡」とは、このことに違いないと確信したワケです。
それと先年、親族の盛岡での結婚式に参加した際、となりに座
った叔母さんが、「私が娘時代(20才くらい)までは、病気にな
ると、父がいつも手当療法で治してくれたので、薬を飲んだり、
病院や医者に掛かったことは一度もなかったのよ」と、ビックリ
するような話をしてくれました。
<叔母は優しく正直なうえ、岩手大(国立)の教授夫人ですので、
ウソを言うような人では無いですし、その必要もありません。又、
この項の下書きを書いている際、従兄弟から「3/1未明に亡く
なった」との電話がありました。とても不思議な気持ちとともに、
心よりご冥福をお祈り致しますm(_ _)m >。

母と、叔母の話からも、祖父がモノにした後天的霊能力は、相当
なものだったと想像されます。私が学生時代から、スピリチュアル
(精神世界)に大いに関心を持ち続けたことや、25才くらいから、
証券投資をするようになったのも、この祖父の隔世遺伝かも知れ
ません。

<写真は父方の祖父>
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『武士の娘』(杉本えつ子著、大岩美代子訳。ちくま文庫)と言う、
とても素晴らしい書物があります。

<アマゾンより> 
著者は、1873(明治5)年、越後長岡藩の家老の家に生れ、武士
の娘として厳格に育てられた。結婚によりアメリカに住むようになり、
すべてがめずらしく目新しい暮らしの中で「武士の娘」として身につ
けたものを失うことなく、また自分にとじこもることもなく、みごとに
自立した考えを身につける。
今日に通じる女性の生き方を見る上にも、当時の風俗や生活のあ
りさまを知るためにも、高い価値をもつ。

<佐々木圭子氏より>
1925年、日本人女性がニューヨークで出版。この本を読むと日本
のことが分かるといわれ、全米で大ヒット、後に世界各国で翻訳さ
れた世界的名著である。

評論家の櫻井よし子氏も、「かっての日本人の精神の高貴さ、挙措
(キョソ)の美しさ、際立つほどに尊い価値観」として、「武士と呼ば
れる人たちとその家族が、いかに厳しく自らを律して清廉に生きて
いたか、人間に対する思いやりがいかに深いか、いかに謙虚で美し
い生き方を全うした人たちなのか・・・!」と、大絶賛しております。

著者は、満4~5歳から四書五経や習字を学ぶ(これらは特殊では
なく、武家にあってはどこでも普通に行われていたとの事)。2時間
の学習時間中は、正座のうえ微動だにしない。
厳寒にあっても、開け放された部屋(越後の冬は寒い。無論、暖房
など無し)での勉強や稽古事! 約2時間の学習後、お祖母さん
が居るコタツの部屋に行くのですが、そこでお付きの婆やが、オオ! 
ご苦労さま、と言ってカジカンだ著者の両手を雪で揉んであげるの
です(急に暖めると手に悪いので)。
「正座のうえ微動だにしない!」 それが、まだ年端もいかぬ幼女
なのです!(今で言う、幼稚園前) その上、男児は、尚、厳しく躾
られ育てられたそうです! 凡そ、現代では全く信じられない程の
お話です! 全世界を見回しても、このような教育を施した国が、
かって日本以外にひとつでもあったでしょうか!? 
しかし、つい戦前の日本では、多くの武家の家系では当たり前のよ
うに行われており、この様に薫育されて成人した人たちが、後の旧
制高校生達を輩出していったわけです<「旧制高校・後ろを見る目・
真実を知るために」参照>。

昔、学生時代、栃木県鹿沼市にある友人の実家に遊びに行ったこ
とがあります。翌朝一番、友人は、お祖母さんの部屋に行き、シッ
カリと正座をし姿勢を整えてから、徐(オモムロ)にフスマを開け、
「お祖母さん、お早うございます!」と、両手の上に深々と頭を下げ、
朝の挨拶をしたのです。伝統を重んじる家系では、戦後もそれが
当然のように行われていた訳です。
翻って、私は、その友人の行為を目のあたりにし、ホトホト感心する
と共に、自ら恥ずかしさを覚えた記憶があります(自分の祖母に、そ
のような丁寧な挨拶をしたことは一度もなかったので)。

サテ、プロフィールにも書きましたが、私は(母方の)おばあちゃん子
でした。物心つく頃より、祖母が88才で亡くなるまで(PFにあるよう
に命日は私の誕生日と同じ)、私を「坊や」と呼んでおりました(^_^;)
又、祖父は早くに亡くなり、祖母が頑張って子供達を育てた訳です。
出来損ないの問題児であった孫の私は、祖母にとって、いたわしく
思われたのか、とても可愛がってくれました。更に色々と薫陶もし
てくれました<将棋も祖母から教わり、小学校時代はかなり強かっ
た、つもり^^; >。 今日まで大過なく過ごしてこられたのは、祖母
のお陰と申しても過言ではありません。
祖母を思い出すたびに、大恩あるにもかかわらず、それこそ何の恩
返しも出来なかった事が、唯今も、大変、悔やまれてなりません(*_*) 
上掲の写真は祖父母と祖母(80才時)です。祖母への、せめても
の感謝の気持ちを込めて、本日よりPFにもアップ致します。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

<蛇足>
「本日、石川調書の証拠採用却下されました」。
『石川知裕衆院議員(38)と池田光智元私設秘書(34)の捜査段
階の供述調書を証拠採用するかが注目されたが、地裁の大善文
男裁判長は石川議員の供述調書の証拠採用を却下した。
石川議員の調書が却下されたことで、検察官役の指定弁護士は
大打撃だ。4月下旬と見込まれる判決が、無罪となる公算が高ま
った(日刊ゲンダイ)』。とあり。

★阿修羅コメント欄より。
------
02. 2012年2月17日 12:52:34 : RdBB9sU9Vo
小沢さんが証拠も無いのに有罪にされてしまう事は哀しいが、実は
これが真実に目覚める人を一気に増やすという結果になるのは間
違いが無い。
結局、最高裁事務総局という悪の巣窟(仕組み)が、多くの人に知
られるわけだから、その意味は大きい。
(推認で有罪の登石裁判官と同じく)大善裁判長が有罪と言うのは
ホボ間違いが無い。事務総局の指示なんだろうから。でも、事務総
局は薮蛇となることを知るだろう。その時は遅いが。
------
06. 2012年2月17日 13:03:48 : nXnS8NqpCo
郷原弁護士のコメント
郷原信郎@nobuogohara[元秘書の供述調書採用せず 小沢氏
公判、有罪立証の柱失う] http://bit.ly/ye2lPu 当然の決定。
これで常識的には、「小沢氏有罪」はあり得ない。万が一、有罪判
決が出されるようなことがあれば、それは、もはや「裁判」ではない。
------
07. 2012年2月17日 13:07:41 : BIgfJMRMNE
もうマスゴミは殆ど小沢の「政治とカネ」などは叫ばなくなっているよ。
小沢事件が到底無理筋な事を、検察とマスゴミが強引に進めてし
まった訳で、ここに来て「政治とカネ」を叫ばなくなった事を裏付け
ている。
1)の年賀状抜粋
 *地球温暖化により、地形的に、「今後日本列島に超大型台
 風襲来が恒常化→風速70m以上も→山地の高圧送電線切
 れる→復旧に1ヶ月以上→この間、都市は停電状態に」。
 *秘教知識を学び、段々と感覚が研ぎ澄まされて行くようです。

2)の年賀状抜粋
 *小生、事務所のエレベーターには乗らず、11Fまで、階段2
 段飛びを実行しております。また、子供の時から、『努力』しな
 い『怠け者』ゆえ、中途半端な人生を歩んでしまい、心中、誠に
 忸怩(ジクジ)たるものがあります。来世、もし万一再び『人間』
 に生まれる『幸運』を得られたなら、その時こそ『努力家の子供』
 として歩みたい。
 *バブル最盛期の1989年賀状に「フロン問題・温暖化等、諸
 悪の根元は、世界に横溢する底知れぬ『拝金・拝物思想』その
 もので、このため全人類に危機的状況が迫っている」と記しまし
 たが、今年はどうやら、その『天を驚かし地を動ぜん』(要するに
 キョーテンドウチ)のスタート年『何でもありの年』となりそうです。

と書きましたが、1)2)それぞれ何時の賀状と思われますか? 

1)は1991年投函の賀状で、その年の秋、台風19号(別名
 「りんご台風」)は見事に(?)風速70mを記録し(非公式では、
 鹿児島の自衛隊ヘリ基地で、最大瞬間風速88m!)、山地の
 最新式鉄塔39基も倒壊し送電線はズタズタに(ニュースに大
 きく載る)。
 西日本各地は大停電となり、特に、人口100万の広島市は塩
 害も加わり1ヶ月以上も! 

2)は1995年の賀状です。
 この年は、一体何があったのでしょう? 
 そうです! あの「阪神大震災」と「オーム事件」で日本中がテン
 ヤワンヤの、正に『驚天動地』の『何でもありの年』となったわけ
 です。後日、多くの人から、「世界の超一流と言われる予言者さ
 え、予測した者はいない、一体どうして分かったのだ?」と大い
 に不思議がられたものです。
 私には、超能力などは無論ありません(反対に『鈍い』くらい)。
 所が、ポイント、ポイントで閃く事があるのです[天の声?(笑)]。
 単にそれだけです。でも、このお陰で、今日まで、どれほど多く
 の危機的状況を救われたことか! 
 この お声さんには(笑)、ただただ感謝あるのみです。

<追伸>
ついでにこの際、自慢話で本当に恐縮ですがm(_ _)m
1990年のバブル崩壊も正確に読みとっており、その対策もバッ
チリで、友人・知人達にもバブルが崩壊するから「不動産を直ちに
売るように!」と連絡し、未だに感謝されています(汗!) 
当時、三越本店がバブル景気に乗って、宝飾品売り場を大金を掛
けて大改造する、との日経記事を見て、「なんと愚かな!」と友人
達に話したものです(天下の大三越が、大局を見通す「参謀」すら
いない事を露呈)。
案の定、大赤字で、ついには今日の伊勢丹に実質吸収されるハメ
に繋がった次第。 又、私どもが不動産を高値で売却以降、例の住
専各社が銀行に変わって不動産に突っ込み(大融資し)、数年後、
住専問題として火を噴き、各社は軒並み倒産していった訳です。
船井総研の船井幸雄会長は、数ある著述の一冊に、「当時、バブ
ル崩壊を正しく予測した日本人は5%も居なかっただろう。私自身
もそうであり、経営コンサルタントとして不明を恥じる」と正直に告
白されております。
私のPFに記した「船井幸雄さんの言う5%」とは、この様な意味な
のです(^_^;)
昨日、誰でも簡単に出来、効果も高い(と思われる)『太陽(宇宙)
エネルギー吸収法』をお知らせしました。
ここで、不食にたどり着けそうと申しましたが、実は「不食は不死の
入り口」でもあるのです。
仙人は実質、不死者であることから、不食→カスミを喰う仙人→
不死、の流れも、ご理解いただけるでしょう。
これに関連し、以前、マイミクさんにお話したことを、加筆してお伝
えします(ご参考迄に)。

 『太古、地球の知識は全て同一でした。エジプ・トート(エメラルド
タブレット)、ギリシア・ヘルメス、エッセネ派、旧約聖書のエノク、イ
ンドや中国の聖者、古神道・・・などを通じ、真理が伝えられました。
例えば、エジプト第18王朝のイクナートン(ツタンカーメンの父?)
は初代ファラオと言われ、人と神(シリウスから)の両面を持ちます。
彼は秘教学派を設立し、300人の不死の弟子を育成した後、毒殺
されました(公式の歴史に於いては。 彼は無論、不死です)。
この300人は後日、イスラエルに移住し(旧約聖書時代)、エッセネ
同朋団を組織し今日に至ります(この同朋団からイエスが出現した
ワケです。今日のキリスト教徒にはビックリのお話でしょう。 尚、ア
メリカの故ドーリル博士も)。
エッセネ派自体のルーツは、人類の起源よりも古く、400万年以上
前の天の川銀河から、と教えられました。エッセネ派が人口に膾炙
(カイシャ)し始めたのは、戦後、死海のほとりのクムラン洞窟で、
「死海文書」が発見されて以降ですから(その筈?)、まだまだ秘密
のベールに覆われております(不死者のグループなど)。カソリック・
プロテスタントの顕教と違い、エッセネ派は密教ですので 』
と言うものです。

以上、この簡単な『太陽(宇宙)エネルギー吸収法』を実践すると、
誰でも、仙人同様の不死者に成れる可能性があるわけです。
ただ、不死者として永遠に生きるのと、人間として寿命通りに死ぬ
のと、どちらが幸せか? と問われれば私は迷わず後者を選びま
すね(笑)


<追伸>
「400万年以上前の天の川銀河」に驚いてはいけません(笑)
25年ほど前、友人と初めて「鞍馬寺」に行き、奥の院までの九十九
折り(木の根道)の途中、確か、「この地は、今から200万年前、金星
からサナートクマラ(魔王尊)の降り立った地である」との、白いペン
キの立て看板があった記憶があります。
2年前、再び同寺に行った際、山門でもらったパンフレットには、「650
万年前、金星より地球の霊王として天降り、地上の創造と破壊を司
る護法魔王尊」とあり、450万年も古くなっているので、ビックリ致し
ました(笑)