夜の仕事の中で、僕は変わっていった。
シリーズ「私が僕になるまで」第12回
気づいたら、この仕事が好きになっていた。
スタッフとして働き始めて、少し経った頃のことだ。最初は何もかも分からなくて、ただ言われたことをこなしていた。
でも慣れてくると、夜の店の空気が、不思議と心地よかった。
昼間の世界とは、別のルールがある場所だった。
ここでは、自分が何者かを説明しなくていい。最初からそういう存在として、この場所にいる。
それだけで、どれだけ楽かは、ここに来るまでの時間が長かった分だけ、よく分かった。
慣れてきた頃、系列店でも働くようになった。
裏方の仕事が終わった後、今度は自分が接客する側に立つ。同じ夜の時間を、別の役割で過ごす。
店を支えることと、自分がお客さんと向き合うことは、全然違う緊張感だった。でも、やってみると、これも面白かった。
一緒に働く人たちは、プロだった。
お客さんを楽しませることへの真剣さが、仕事の端々に出ていた。舞台の上に立つような感覚で、毎晩その場所に立っていた。
それを近くで見ながら、僕も少しずつ、この仕事の輪郭が分かってきた。
「僕」という言葉が、自然に出るようになっていた。
この店に来てから、そうなっていった。意識したわけじゃなかった。ただ、ここでは僕は最初から「僕」だった。
その積み重ねが、外でも染み出してきた気がした。
お客さんとの距離感
系列店で接客をするようになってから、お客さんとの距離感が難しくなった。
裏方のときは表に出なかった。でも接客となると、毎晩お客さんと話す。常連さんとは顔見知りになる。
そういう積み重ねの中で、たまに妙な空気になることがあった。
好意を向けられることが、何度かあった。
最初は意味が分からなかった。自分のことを知った上で来ているお客さんのはずなのに、なぜ——と思った。
でも、先輩に話すと笑われた。「そういうもんやで」と言われた。
この世界では、それも普通のことらしかった。
どう対応するか、正直最初は戸惑った。好意を受け取ることも、断ることも、どちらも経験した。
うまくかわすことを覚えたのも、この頃だった。仕事の中で、人との距離感というものを、体で覚えていった。
一緒に働く人に、恋をした
もっと困ったことがあった。
一緒に働く人のひとりに、恋をした。
自分の在り方は分かっていた。でも、好きになった相手は、自分とは違う方向で自分らしく生きてきた人だった。
好きになってから、少し混乱した。
自分の好きになる人って、どういう人なんだろう、と改めて考えた。性別でくくれない何かが、そこにあった。
その人のことが好きだった。それだけだった。でも、それを整理する言葉を、そのとき僕はまだうまく持っていなかった。
結局、何も言わなかった。
毎晩同じ店で働いていた。プロとして尊敬していた。仕事を教えてもらっていた。それで十分だと思うことにした。
でも、あの頃のことは今でも覚えている。
夜が、僕を作っていった
夜の仕事は長い。
閉店後、片付けをしながら、一緒に働く人たちと話すことがあった。それぞれの話を聞いた。
自分が何者かと向き合ってきた人たちの話は、重さがあった。
笑いながら話しているのに、その裏に長い時間があることが分かった。
僕も、そういう時間を生きてきた。
でも、この場所に来るまで、それを誰かに話せる場所がなかった。
グラウンドにいるときは、ソフトボールが言葉の代わりだった。
実業団で同じ景色を持つ仲間ができて、初めて話せるようになった。
そして今、毎晩一緒に働くこの人たちの中で、僕は当たり前のように「僕」でいられた。
少しずつ、何かが変わっていった。
外見が変わった。声が変わった。一人称が変わった。でも、それより深いところで、何かが変わっていた。
自分が何者かということへの、向き合い方が変わっていた気がした。以前は「これが自分だ」と証明しようとしていた。
今は、証明しなくていい気がしていた。ただ、そうだった。
名前のこと、また考えた
この頃、名前のことを改めて考えるようになった。
治療を続けて、手術をして、体が変わった。「僕」という一人称が自然になった。
でも、書類の上ではまだ変わっていなかった。名前も、性別の欄も、以前のままだった。
日常生活の中で、身分証が必要になることがあった。
そのたびに、少しだけ止まる瞬間があった。外の自分と、書類の上の自分が、まだ一致していなかった。
それが気になり始めていた。気になっていなかったわけじゃなかった。
ただ、この頃から、より具体的に考えるようになっていた。
次は、そこだ、と思っていた。
次回「私が僕になるまで」第13回は、系列店の店長になり、交流が広がり、そして恋した相手と付き合い、東京へ向かうまでのことを書きます。
【書き手より】夜の仕事の中で、僕はいろんなものを受け取りました。お客さんとの距離感、恋をすること、自分が何者かということ。教科書には載っていないことを、あの場所が教えてくれた気がします。ママさん、あの夜捕まえてくれてよかったです(笑)