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リングネーム ミル・マスカラス

本名 アーロン・ロドリゲス

ニックネーム 千の顔を持つ男

身長 180cm
体重 105kg(全盛時)


来歴

学生時代からアマチュアレスリングとボディビルに熱中。アマレスではメキシコ代表として東京オリンピックの候補にもなった。ボディビルでは1962年にミスター・メキシコに輝く。1964年4月に仮デビュー、1965年7月大キャンペーンの後、メキシコの大会場アレナ・メヒコでデビュー。
1968年から1971年にかけてはアメリカのNWAロサンゼルス地区(NWAハリウッド・レスリング)を主戦場に活動し、バディ・オースチン、ザ・シーク、ジョン・トロスらを破りNWAアメリカス・ヘビー級王座(WWA世界ヘビー級王座の実質的な後継タイトル)を通算4回獲得。1969年11月21日にはドリー・ファンク・ジュニアのNWA世界ヘビー級王座に初挑戦した。同地区ではアーニー・ラッドやブル・ラモスなどの巨漢ヒールとも抗争を展開しており、ラモスとの抗争は髪と覆面を賭けて闘うカベジェラ・コントラ・マスカラやチェーン・デスマッチにまで発展している。なお、日本においてロサンゼルス時代のマスカラスは、絶対的なベビーフェイスであったにもかかわらず、その斬新な覆面のデザインが当時の日本では奇怪とも映ったことから "悪魔仮面" などと呼ばれていた。
初来日は1971年2月の日本プロレス。スパイロス・アリオンと組んでジャイアント馬場&アントニオ猪木のインターナショナル・タッグ王座に挑戦し、猪木とのシングルマッチも行われた。1973年10月からは全日本プロレスに参戦し、ジャンボ鶴田やザ・デストロイヤーと好勝負を展開。1977年8月25日に田園コロシアムにて鶴田のUNヘビー級王座に挑戦した試合は、プロレス大賞の年間最高試合賞を受賞した。全日本では1970年代後半から1980年代前半にかけて、『サマー・アクション・シリーズ』など夏場のシリーズに例年参戦しており、ドス・カラスとの兄弟コンビでの来日は全日本プロレスの「夏の風物詩」ともいわれた。1980年9月12日には、全日本のリングでハーリー・レイスのNWA世界ヘビー級王座に挑戦している。
1986年1月の来日を最後に全日本プロレスへの登場が途絶えていたが、2000年に三沢光晴らの大量離脱が起こった後、再び参戦を開始。2006年9月には大阪プロレスに登場した。近年では2009年3月の『仮面貴族FIESTA2009~ミル・マスカラス華麗ナルゴールデンタイム伝説~』に来日し、初代タイガーマスクとタッグを組んで藤波辰爾&グラン浜田と対戦している。
また、マディソン・スクエア・ガーデンにおける「覆面レスラーはマスクを脱いで素顔で出場しなければならない」という理不尽な決まりを、1972年12月18日に素顔のザ・スポイラーとの対戦にて破り、初めて覆面を被ったままMSGに登場した人物である。ニューヨークのWWEには1970年代から1990年代にかけて不定期に単発参戦し、1978年には当時のWWWF王者スーパースター・ビリー・グラハムにも挑戦。同年1月23日のMSG定期戦で行われたタイトルマッチでは、ボブ・バックランドがマスカラスのセコンドを務めている。1984年にスタートしたビンス・マクマホン・ジュニアの全米侵攻サーキットにも、中西部地区のビッグイベントを中心に出場した。1997年1月19日には、メキシカン人口の多いテキサス州サンアントニオで行われたロイヤルランブル(第10回大会)にも出場している。
俳優としても活動しており、これまで20本以上の映画(ルチャシネマ)に出演している。日本では『愛と宿命のルチャ』がBOX東中野で公開され、TBSの深夜映画枠で『ミル・マスカラスの幻の美女とチャンピオン』が放映されたことがある。2007年には久々に主演作品 "Mil Mascaras Versus The Aztec Mummy" (『ミル・マスカラス対アステカのミイラ』)が製作・公開された。


千の顔を持つ男

試合毎にマスクを変えることから "千の顔を持つ男" と呼ばれた。リングネームはスペイン語で「千の仮面(マスク)」という意味である。日本で試合に出場した時には複数枚のマスクを用意して、リングに入場する際、マスクの上に別のマスクを更に被り(オーバーマスク)、そのオーバーマスクを投げファンにプレゼントするパフォーマンスが人気を集めた。また、別のマスクを被る時は顔を隠しながらアゴのあたりからスルッと(2枚のマスクで頭を包むようにして)被り直す特技もあり、絶対に素顔を晒さなかった。

獲得タイトル

NWAハリウッド・レスリング
NWAアメリカス・ヘビー級王座 : 4回
NWAアメリカス・タッグ王座 : 2回(w / アルフォンソ・ダンテス、レイ・メンドーサ)
NWAビッグタイム・レスリング / WCCW
NWAアメリカン・タッグ王座 : 1回(w / ホセ・ロザリオ)
NWAテキサス・タッグ王座 : 1回(w / ホセ・ロザリオ)
WCCWタッグ王座 : 1回(w / ジェフ・ジャレット) ※ダラスのフリッツ・フォン・エリックの団体のタイトル
IWA
IWA世界ヘビー級王座 : 1回(アメリカ北東部の独立団体のタイトルだったが、団体崩壊後も長期間防衛戦を続けていたマスカラスの虎の子のタイトルである。日本で天龍源一郎、マイティ井上らの挑戦を受けたことがある。なおラッシャー木村らの保持していた同名のタイトルとは別物)
WWA
WWAヘビー級王座 : 1回
ALLL
ALLLヘビー級王座 : 1回
HWP
HWPアメリカ王座 : 1回
全日本プロレス
PWF・USヘビー級王座 : 1回(日本でザ・デストロイヤーから奪取)
その他
メキシカン・ナショナル・ライトヘビー級王座 : 2回

入場テーマ曲

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グレート・ムタは、マネージャー兼ブッカーのプレイボーイ・ゲーリー・ハートによってプロデュースされた、忍者をモチーフとしたペイントレスラーであり、武藤の「化身」であるが、武藤本人が「代理人」としてコメントをすることもある。設定上は、同じくゲーリー・ハートがマネージャーとなったザ・グレート・カブキの息子。正式なプロフィールによると、1989年4月2日・アメリカ合衆国ルイジアナ州ニューオーリンズ出身である。カブキとは1993年に「親子」対決を、1998年には「親子」タッグを結成したこともある。ちなみに「ムタ」の由来は、「グレート・ムトウ」と外国人が「ムトウ」とうまく発音できないために、武藤自身が呼びやすい名前にした(ただし、現地のWCWのテレビ放送において、「Great Mutou」とテロップを出すところを誤って「Great Muta」と表示されてしまったことから始まるという説もある)。そのため日本での意味は「グレート・ムトウ」ということになる。設定上、英語しか喋れないはずだが、武藤が設定を忘れて日本語を喋ってしまうことがあった。
ムタの誕生はプエルトリコのWWCでの海外武者修行時代に遡る。修行先ではスーパー・ブラック・ニンジャのリングネームを名乗って活動していた。これがNWAのプロモーターの目にとまり、ゲーリー・ハートのアドバイスにより、顔にペイントを施したザ・グレート・カブキの息子、ザ・グレート・ムタが誕生した。そして1989年にWCWに登場(初登場時は忍者キャラで、入場コスチュームには「伊賀流」の刺繍が入っていた)、ムーンサルトプレスを必殺技に、スティングやリック・フレアーとの抗争を経てヒールの人気レスラーとなった。日本初登場は1990年9月7日、大阪府立体育会館でのサムライ・シロー戦である。これ以後、年に何度か登場し、対戦相手を流血と毒霧地獄に追い込む凄惨な試合を展開している。
もともとは顔に毒々しくペイントをしていた。スキンヘッドになると一時封印して、後述の黒使(師)無双が武藤の化身として登場していたが、2002年に毒蜘蛛をモチーフとするSFX用ラバーマスクとペイントを組み合わせた新しいスタイルで復活させた(マスク制作は特殊メイクアーティスト、JIROによる)。その後、ジェイソン、デビル、ダース・ベイダー、海外遠征によるメキシコでの世界遺産、イギリスでの騎士、プエルトリコでのパイレーツ、中国をイメージしたコスチュームで登場。武藤本来のファイトスタイルとは正反対の毒霧・凶器攻撃・反則攻撃が非常に多いが、武藤自身の華麗な技も披露する。かつてはムタと素顔の武藤の差別化を図っていたのか武藤が得意とする足4の字固めなどは決して使用することは無かったが、復活後のムタは武藤が使用する技も頻繁に使用しするようになった。試合は必ずといっていいほど流血試合になる。
Muto was featured in the wrestling documentary, Bloodstained Memoirs.
WCWでの活躍から、ジャイアント馬場と共に『本当の意味で、アメリカマット界で成功した日本人レスラー』とも言われている。WWEに登場したことはないものの、未だもってアメリカでの人気は高く、人気・知名度共に日本人レスラーの中ではトップクラスである。WCWでは1989年から1990年にかけてテリー・ファンクとのJ・テックス(J-Tex)で活躍し、1989年10月28日のPPV "Halloween Havoc" ではブルーノ・サンマルチノを特別レフェリーに迎え、フレアー&スティングの頂上コンビとサンダードーム・ケージ・マッチで対戦している[5][6]。2000年の参戦時にはバンピーロやインセイン・クラウン・ポッシーとダーク・カーニバル(Dark Carnival)なる怪奇派ユニットを結成し[7]、バンピーロとのコンビでクロニック(ブライアン・アダムス&ブライアン・クラーク)からWCW世界タッグ王座を奪取した[8]。
2008年、全日本所属だった雷陣明がトライアウトを経て、KIYOSHIのリングネームでTNA所属となった際に、KIYOSHIのプロモ映像で武藤とスティングが出演し、スティングはかつて武藤と戦ったことに触れながらKIYOSHIに期待するコメントを送り、ナレーターもムタの弟子であることを強調するなど、現在でも影響力の大きいことが窺える(そのKIYOSHIもムタを彷彿とさせる黒いフェイスペイントで活躍している)。



ムタの偽者、真似たキャラクター
グレート・ムタには偽者が登場している。2002年10月に新日本プロレスに初登場し、2004年11月には全日本プロレスに登場した「GREAT MUTA」である。どちらもムタと違い全身コスチューム系覆面レスラー(一応ペイントもしている)で、どちらも同じコスチュームだが中身は別人である。 武藤敬司自身は偽者に嫌悪感を抱いており、全日本プロレス版が2004年に登場した時はグレート・ムタ対GREAT MUTAの直接対決を行ってこれを打ち破っている。その後、この偽MUTAはマスクを脱いで素顔のジョニー・ザ・ブル・スタンボリーとして参戦、VOODOO-MURDERSを結成している。
なお、2002年に新日本に登場したMUTAは、正体を明かしておらず不明である。
また、別レスラーのバリエーションとして元キングスロードの宮本和志はグレート・カズシ、大仁田厚はグレート・ニタ、小島聡は愚零斗孤士(グレート・コジ)、TARUはグレート・ルタ、曙はグレート・ボノ、吉江豊は具冷斗油太(グレート・ユタ)、竹村豪氏はグレート・タケとしてリスペクトしている。また、カブキ本人が新たに連れてきたカブキシート等が存在する(女子としては工藤めぐみが同系統のキャラクターに扮したことがあったが、予告無しであったためリングネームはそのまま。後付けで「女愚魅」と呼ばれることはある)。ただしカブキ直系(本人が連れてきた等)のギミックはムタとユタ、タケとカブキシートの3人のみである。

入場曲