11月に大切な友人が天国に旅立った。
その子のことは以前このブログでも書いたことがある。
もし、その時のブログを読んだ人の中に、彼女のことを覚えている人が1人でもいるなら、彼女が旅立ったことを報告したくてここに書きます。
彼女の死を伝えられてしばらくは、悲し過ぎて気持ちのやり場がなくて困ったが、1週間くらい過ぎると気持ちが落ち着いてブログも書けそうだ。
冒頭の「天国に旅立つ」というよく使われる言葉も悲しみのどん底にいた時は、彼女の死を伝える言葉として、ちょっと違うと思った。でも今日はそれを使う。
亡くなった直後の感覚と今の感覚が変わってきているようだ。
昨日までは、どんな言葉を使っても悲しさを伝える言葉に届かないと思った。それなのになぜ足りない言葉でも、彼女の死をブログに書くのか。
それは、私が小学校5年生の頃に「人間の気持ちや感情は消えてなくなるが、それを文章に書けば残る」ということを知り、それを時々実践しては、忘れた頃にそれを読み、残しておいて良かったと思ってきたからである。
わずか1週間くらいで、あのどうしようもない悲しみが薄れるなんて・・・、もっと時間が経ったら彼女の死が当たり前のものに変っているのかもしれない。
今はそれ(彼女が過去の友人になってしまうこと)を悲しいことだと思うが、一日一日を今までどおり暮らしていく中で、そうなっていくのかもしれない。
今の、彼女が生きていたことが思い出に変るのが悲しいという感覚を残しておきたい。
彼女の死を聞いた時、私はある世界にまた入ってしまったのを感じた。
それは、私の癌が転移して、あと1年も経たないうちに死ぬと主治医に言われた時に現れた世界なのだが、現実感のない、もやっとした世界で、生きている人たちに紛れて、生きても死んでもいない私がいて、私はこんなに絶望しているのに、通行人たちには私が異次元の世界にいることを知らない、そもそも私のことなど目にも入っていない、私が勝手に作り上げた説明のつかない世界であった。
「また、この世界に来た。そうだ、こんな世界だった。」と思い出した。
彼女の死は、いつかはおとずれるものと思って覚悟していた、つもりだったのに、実際そうなってしまうと、想像をはるかにはるかに超えていて、こんなに悲しくなるものなのか、と驚いた。
そして、彼女の存在が、私が思っている以上に大きな存在で、これからもっとそれに気付く日があるのだと思う。
悲し過ぎるといっても日常生活はできる。
3度の食事も取れる、仕事もできる。
でも、悲しみには波があって、急に悲しみの波がやってきて、仕事中などは涙を我慢して、我慢を続けても急にどどっと大波がやってきて悲しみのツボにはまってしまう。
それを繰り返す。
告別式には出席できた。
前日、大泣きしていたから、告別式でかっこ悪いくらい号泣してしまうのでは、と心配だったが、告別式は「長い間、よく大変な治療を頑張ってきたね!!お疲れ様!!」という気持ちで出席し、号泣はしなかった。涙と鼻水は流したけど。
告別式の想像はしていなかった。
自分の時はどんな感じなんだろう・・・と思いながら見た。
お坊さんのお経っているのかな、彼女も「これいらないんだけど。」って思ってるんじゃないかなとか、告別式は意外と雑念が入ってくる。なので、悲しみにも集中することがなく、ちょうど良かった。
帰りの新幹線でまた悲しみのツボにハマった。
家に帰ってきても悲しみの波がやってきた。通勤途中の電車でも津波のようにやってきた。
それを繰り返すうちに、悲しみの波が弱くなってきた。
彼女がどこかで頑張っていると思うだけで救われていた、と死を悲しんでいた私だったが、彼女がいなくなってもこれまでどおり毎日を頑張っている。
ず~っと前の私と彼女のエピソードなのだが、昔、彼女の同僚が仕事を突然辞めた。
私は「これから同僚が辞めた分の仕事までやらないといけなくなって大変だね。」と言ったら
「いや、むしろ、今まで楽させてもらったと思うから、何とも思わない。」と言っていた。
その考え方を見習った私は、職場で途中で退職したり休職する人が出ても「今まで頑張ってくれてありがとう。」と思えるようになった。
彼女は12年間抗がん剤治療を頑張ってきた。
途中から私も癌で闘病することになった。
私が点滴のルート確保の繰り返しで、痛みやつらさを忘れられたのは、針を刺す時にいつも彼女を思い出したからだった。
今まで頑張ってくれてありがとう、と思う。
おまけ
新幹線で数時間で斎場に向かう途中の景色。
綺麗な富士山。
彼女が見せてくれた気がした。