こんばんわん。

最近、友人に映画と本を借りました。

テーマはズバリ、ナチスドイツとユダヤ人虐殺

ドイツを語る上で欠かせない歴史です。
ドイツ人も、このことをドイツの汚点と感じているらしく、ある友人の話では、ドイツ人に
「今からアウシュビッツに行くんだ~」
というと、その人は顔を凍らせたそうです。

ただ、ドイツが特殊と思ってはいけない。
日本も、南京で大量虐殺を行ったという黒い歴史がある。

日本の学校教育ではこのことにもっと触れるべき。
日本という国の(日本に限った話ではないが)、醜い点、汚い点に触れなければならない。
そうすることで、日本という国をもっと客観的に見ることができるようになるだろう。

そしてそれこそが、自国を愛し、他国との差異に気づき、世界を理解することにつながるだろう。

僕は高校までは(というか今でも)歴史の勉強が大嫌いである。
年号や人物名の暗記に過ぎないと思っていたからである。

しかし、今後、(夢を語ると)世界を舞台に活躍するためには、世界の理解が必要である。その国の生い立ちや他国との関係である。歴史が文化を形作っている側面もある。

そう、歴史の本質とは年号や人名の暗記にあるのではなく、様々な国を形作っている流れを理解することにあるのである。歴史が国民性に影響する。


というわけで、今、高校初級レベルの世界史を勉強しているところなのであります。。。






さて、レビュー。
まず一つ目。

夜と霧―ドイツ強制収容所の体験記録/V.E.フランクル
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アウシュビッツに収容された精神医学者の体験記である。
夜と霧「Nacht und Nebel」というのは、ナチスによって一晩のうちに一家が消えうせる様を表現した言葉である。

実は、この本の存在は以前から知っていた。
大学の教養で、科学史という授業でこの、夜と霧(映画もある)が取り上げられた。

その映像は生々しく、死人の画などもよく出てくる。
授業中にあまりのショックに気を失う人も出てくるほどであった。

ただし、そこは目を背けてはならない点でもある。
同じ人間というものが人間に、ここまでひどいことをするのか。
精神的に追い込まれた人間はどうなるのか。

ナチスによってユダヤ人に臓器移植の実験も行われる。
足の骨を他所に移植する。もちろん、治療のためではなく、実験のため。人体実験である。人間モルモットである。
当然その患者は歩けなくなり、使い物にならないとわかると殺される。

人間という存在が、魂あるものではなく、呼吸をする有機体として扱われた、人類にとっても黒い歴史である。

話が戻るが、僕は臓器移植には反対である。
実は、脳死というのは完全な死ではない。
まだ「生」ある状態なのである。(再起可能性は別にして。)
その状態で、人間同士の内臓を入れ替える、というのは、上で述べた、人間モルモットに過ぎない。人間というものが、魂ある存在として扱われていないのである。ただの、「物質」になり下がっているのである。

そもそも、医者というのは、目の前に横たわっている患者の救出に最善を尽くすべきである。(ヒポクラテスの誓い。)

ある医者が臓器移植を行えば、実績も上がるし、名声も得られる。
ただその前提には、他の患者の死(脳死)を今か今かと待ち構えていることが必要なのである。ヒポクラテスがそれを見るとどのように思うだろうか。

体は天からさずかったもの。
欠陥も、臓器の不具合も、受け入れるべきなのである。
事故も運命である。


人生とは、偶然の連続。予期せぬ偶然の繰り返し。
まるで、神がサイコロを振っているかのように。



次。
ライフ・イズ・ビューティフル [DVD]/ロベルト・ベニーニ,ニコレッタ・ブラスキ,ジョルジオ・カンタリーニ
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ドイツの映画ではなくイタリアの映画である。
ユーモアたっぷりに描かれているものの、ナチスドイツを知るには格好の材料である。

なんでも、この監督の親が実際に強制収容所に収容されていたらしい。
自分自身がショックに陥りながらも、何よりも家族を結ぶ愛を大切にする、男のお話。

これらの映画を見ることで、ドイツが嫌いになってしまう人もいるかもしれない。

しかし上にも述べたように、「ドイツ」が特殊なわけではない。人間はこうもなりえるのだ、という教訓を学ぶべきである。

歴史は、過去に学ぶために勉強する、ということはよく言われることである。ある意味で、過去の事例から、人間というものの本質を追求する学問こそが歴史なのかもしれない。

ドイツの学校では(いや、ドイツに限らず世界中の学校で)、このナチスドイツと大量虐殺のことについて、今後も教え続けていってほしい。人間の異常な一面が今後垣間見えることのないことを願う。


ドイツに行ったら、是非アウシュビッツに行ってみたいものである。(ポーランドですが。)
【新4年生・新M1の方々へ】
僕が3年間通った研究室です。

http://d.hatena.ne.jp/repose/20110206/1296924211

研究生活は受動的なものではありません。能動的・生産的活動であるべきです。
新しく研究室に入ったみなさんへのアドバイスとして、自分の所属する研究室の性格に早く気づくこと、そして自分の研究室生活の戦略を早いうちに立てることが重要です。

「戦略」、というのは、その環境でどのようにしたら自分が最も成長(活躍)できるか、を考えるということです。

研究室に利用されるのではなく研究室を自分の成長の場として利用するのです。

言っておきますが、先輩や教授の言うことは間違っています。
高校までのように、先生や先輩の言うことはハイハイと素直に聞いているだけでは絶対に成長できません。
良い学生であることが必ずしも自分のためにはなりません。
(「勉強」と「研究」の違い、みなさん分かりますか?分からなければ、研究室生活の中で、このことに早く気づくべきです。優等生≠良い研究者、なのです。)

その意味で、僕の研究の原動力は教授への恨みと自分自身へのプライドでした。

大学(院)生活を、自分の人生80年の中でどのような位置づけにするか。
研究室で無為に日々を過ごして単位揃えて適当に卒業できればいいと思いますか?
そういう人間を僕は、ロンダラーとして軽蔑します。
(研究以外の生産的活動を否定しているわけではない。学歴を人生のツールとして利用することも重要な戦略である。)

修士は、学生と言えども研究者。「自分は学生の身分だし将来研究なんかしねぇから何でもいいやー」という論理は通用しないと思う。
研究者たるもの、向上心と確固たるフィロソフィーを持っているべきである。



そもそも研究の原点とは何か。

私は先日、カンボジアに行ってきた。
カンボジアは世界でも最貧国に数えられる国である。
観光業により、収入の多くを賄っている人々も多くいる。

カンボジアへの観光客のほとんどは、カンボジア語を話せない。
つまり、英語、日本語、中国語などで観光ガイドたちは接客をする。

英語でのガイドさんの収入はかなり良い。
平均的な警察官の収入が月20USDであるのに対し、我々が英語のガイドを一日チャーターすると、30USDくらいかかる(もちろんガソリン代なども含まれているが)。つまり、彼らはかなりの高給取りなのである。

彼らはどこで勉強するのか。学校である。
これは、勉強というものが収入に直結する好例であると言えよう。

英語を話せるだけで、生活レベルが格段に変わってくる。
カンボジアの人々にとって、生きていくために勉強は欠かせないものなのである。



今の日本にこれを還元することは不可能であろう。
物質的・精神的に恵まれすぎているから。
さらに、勉強のレベルが収入に直結するわけでもない。

では我々は何故研究する(新しいことを知ろうとする)のか。
それはひとえに「知的好奇心」ではないだろうか。

カンボジアとは対極的に、というか、次段階的に、人は精神や物質の充足が得られると、知的好奇心が刺激されるものなのではないだろうか。

だから、「その研究をして何の意味があるのか?」という質問は愚問である。
程度の差こそあれ、皆、自分の知的好奇心の充足のために研究しているのだから。
(ただ、悲しいのは、社会への還元を謳わないと国から研究費がもらえないことである。)


知りたいと思うから知ろうとする。それだけの理由である。

それなら、与えられた環境の中でとことん知り尽くしてやろうではないか。
まだ世界中の誰も知らないことを知ろうではないか。

これこそが、研究者としてのphylosophyであると思うのである。原点である。







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東京生活も残すところ一週間。
23日~30日まで、福島県会津若松市に学習支援ボランティアに行ってまいります!
大学が募集していたプログラムに、隊長として、原発から避難している中学生に勉強を教えるプログラムを行ってきます!

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さてさて、ここで質問。
「ボランティアとは誰のためのモノでしょうか?」

いろいろと反感を買うかもしれませんが、結局は、行く人自身のためのものなのかなぁ、と。
行く人の自己満足。
(本当は自分のためにやってるのに、あたかも他人のためにやっているかのような偽善者は僕はキライである。)

その論拠として、ボランティアってやっぱり「ボランティアしに行く」って発想よりも、「ボランティアさせてもらいに行く」っていう発想が大事だと思うんだよね。相手のためじゃなくて自分のためなんだもん。相手も自分も対等なんだよねー。

これはスポーツのコーチと選手の関係も一緒。「ワイがコーチしたる!」って発想じゃなくて「コーチとして選手と一緒に成長させてもらう!」って発想ね。(これがコーチと監督の違いでもある)

話が逸れた。
被災地ボランティアと途上国への国際協力は似ているところがあると思う。
その活動を行うのはよいが、「何故?」という視点をもっと大事にすべきだと思う。その活動を行う必然性は何なのか。

彼らは何故もっと身近な、例えば都市部の低所得者への支援などの活動を行わないのか。
海外の発展よりもまず、自国の身近に存在する問題の解決が先決ではないのか。(別に海外支援を批判しているわけではない)

だから、「このお金で途上国に学校を作ります!恵まれない子供たちのために寄付をお願いします!」とか言われても、正直「う~ん」って感じである。結局彼らも自分のためにやっているのだよね。「何でアンタらがそんな活動やってんの?」って思っちゃうんだよね。アンタらの自己実現のために何でワシがカネを払わなきゃならんのや。何か背景があるんならいいんだけどさ。

僕は、将来的に教育に携わりたいと考えている。だから、今回のボランティアも行く。
自分のために。
まぁぶっちゃけ女子中学生と楽しい時間が過ごせればいいなーフハハwwタダだしねーwwなんて考えてます。

こういう人間はボランティアに行くべきではないでしょうか。
(日本語がまぎらわしい。Ain't I suitable for volunteering? ってことである。)

その答えを出しに行ってきます。
修論おわりましたーっ!о(ж>▽<)y ☆

久しぶりにブログ見たら、

>今度からもっと更新しよう

などと書いてる。なんぞこれ。

少し時間もできたので、書きたいことをつらつらと書いていきます。


(#⌒∇⌒#)ゞ

~糸冬~

痴人の愛 (新潮文庫)/谷崎 潤一郎

¥660
Amazon.co.jp

久々に本を読みました。
谷崎潤一郎、痴人の愛。

高校の頃に文学史の教科書で書いてあったのをふと思い出し、5年くらい前に買っていた。
以前一度読んだが、今回、再読。


生真面目な人間が、女性の美しさに溺れて奈落に落ちる様を描いている。

ただ、小説を読んだ後の、何ともいえない虚無感がボクはキライである。
それはただ、自分の読解力が足りないだけなのかもしれないが。

小説や映画を終えると、「はぁ。それで?何?」と言いたくなる。
ボクが今まで本嫌いになっていた原因でもある。

しかし、本という文化に触れることなく一生を終えてしまうのはもったいないと思うようになった。
つまらない人の話を一時間聞くよりも、ためになる本を一時間読むほうがよっぽどいいに決まっている。


これからも懲りずに根気良く本を読んでいこう。小説を中心に、新書も。いつまで続くかわからないけれどwww



さてさて、昨日は頑張ってブログ書いたのに消えてしまった。

今日は昨日とは全く違うことを書く。


大学の存在意義って何であろうか。

ボクは、

「教育」と「研究」であると思っている。


ただ、全ての教授がそれを両立している必要はない。教育的側面の強い教授や逆に研究しかしない教授がいてもいいとは思う。



しかし、ボクが言いたいのは、そのいずれかを行うことは教授の義務ではないか、ということ。
教授として必要最低限だと思うんだよね。



いくら理想や夢を語ってもよいけれど、教育も研究も一生懸命しない(あるいは、できない)教授にはそのようなことを言う権利はないと思うんだよね。

てか、そんな教授の言っていることには説得力がないんだよね。

自分が一生懸命教育や研究を頑張っているからこそ、学生はその教授についていくだろうし、言うことを聞くと思うんだよね。


スポーツの世界と全く同じではないか。リーダー(主将)となる人が一生懸命練習をしていないとすると、他の部員たちはついてくるわけがないではないか。



学生ばかりに文句をつける教授がいるけれど、それは言語道断。まず自分の身を省みろっていうの。


社会的に、今の若いものはダメだ、と若者の欠点ばかり挙げるおっさん共がいるけれど、そもそもそういう社会をつくったのは誰よ?アンタたちじゃないの?


自分たちが作った環境に、若者(学生)を招き入れておいて、「いや~、いまどきの若者(学生)はダメだねぇ~」とか言われるのは非常に腹が立つ。彼らはお前らの作った環境で成長しようとしているのだ。
ちょっとは環境を整える努力をしろや。






ちょっと今日は語気が荒くなってしまった。

書きたいことがまだまだたくさんある。
これからはもうちょっとブログ更新しよう。

ツイッターは日々の遊び、近親者との情報交換の場、人脈拡大の場。
フェイスブックは普段会わない友人たちや外国の人々への、自分の近況報告の場。
ブログは日々考えていることの掃き溜め、憂さ晴らしの場、自分磨きの場。

~糸冬~