さらに、コミュでの発言の移動です。
++++引用開始++++
2006年06月18日
『アクエリアン革命』については、もうあちこちで紹介しているのですが、ここでもまとめておきますね。
第10章が「新しい学び方」となってます。
そこに教育について 、書かれてます。
ちょっと、長くなりますが、「古い教育の考え方」と「新しい教育の考え方」を比較してみます。
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古い教育の考え方 : 新しい教育の考え方
と、表の形で本文に載っているのですが、以下
古い教育の考え方=(古)
新しい教育の考え方=(新)
という書き方で掲載します。
(古)知識そのものに重点。一度きりの「正しい」知識の習得
(新)知識を得る方法、質問の発し方に重点。新奇な発想にも心を開き、既存の事実、知識も絶対ではなく変化するものを認める。全体とのつながりに重点。
(古)学ぶことが目的そのもの
(新)学ぶことはひとつの過程、ひとつの旅
(古)画一性を助長し反逆を抑え込む
(新)生徒と教師は人間同士の付き合いであり、形式ばった役割にこだわらない
(古)前もって決まられたカリキュラムにもとづく系統だった教育
(新)比較的柔軟な教育。ひとつのことを教えるにも幾通りもの方法があるという信念
(古)成績に焦点
(新)自分の信じるものがいちばん大切なのであって、成績はそれに付随するもの
・・・(中略)・・・・
(古)分析力つまり、左の脳の機能を重視
(新)左右両方の脳を使うように教育する。つまり、左脳の合理性を右脳の全体的、非直線的、直感力で補う。二つのプロセスの統合に意義を見つける。
(古)人間には能力差がある
(新)人間の教育の可能性を限定するような差を設けるべきではない
(古)主として理論的、抽象的な「本からの知識」に頼る
(新)理論的な知識を大きく補うものは実験や経験であり、それは学校外でもできる
・・・(中略)・・・
(古)教育は一定期間行なうものであり、特定の技能を与えることを目的とする
(新)教育は生涯かけて行なうものであり、学校は教育のごく一部でしかない
(古)視聴覚機器、コンピューター、テープなどの技術にますます依存する
(新)技術はほどほどにして、教師と学習者の人間関係を第一に置く
(古)教師は一方通行のように生徒に知識を分け与える
(新)教師もまた学ぶ人であり、生徒からも学ぶ
・・・・・・・・・・・・・・・・・
(前掲書・327~328ページ)
こういう文句も私は好きです。
「 もしわれわれが真の意味で学び取ろうともせず、また教えようともしないなら、われわれは死んだも同然である。学ぷということは人間の健康のようなものだ。いや健康というよりは人間にとって生きるということそのものだといいきってもいい。
人間の成長期に最大の影響を与えるのは学校教育である。ところがその学校教育が新しいもの、不思議なものを拒否することを教え、意識を目覚めさせようともせず、画一化を教え、ものごとのつながりをわざわざ分断することを覚えさせる。熱が出たら熱を下げる薬を飲み、血が出たら血を止める薬を塗るという治療法は、実は身体全体のシステムを無視し、局部的な症状しかみていないことになるが、同様に学校においても、知識や経験を〝科目〟別に分けて、本来包括的であるべき全体を細切れに分割してしまっている。学校では一個の花はばらばらの花弁になり、歴史の流れはできごとの羅列になりはててしまう。」(前掲書・3198ページ)
++++引用終了++++
これは、私の日記には何度も書いているのですが、「エデュケーション」を「教育」と訳すこと自体、いろいろ誤解をあたえるもとだと思っています。
「エデュケート」とは「引き出す」というのが本義ですから、「開智(智を開く)」ということばこそ、「エジュケーション」にふさわしい。
ですから、
「学校教育」ではなく、「学校開智」
「教育委員会」ではなく、「開智委員会」(^_^)v
(文責:穴見嘉秀(あなみ よしひで)@九州大谷短期大学表現学科情報司書フィールド助教授 a73@nifty.com
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