本棚にあった『永井一郎の「朗読のヒント」』(ふきのとう書房)を昨日から読みかえてしています。永井一郎さんって波平さんの声の人です。
なーんだ、以前ミクシイの日記で書いたことと、永井さん、ちゃんと書かれているじゃないですか(*^_^*)
<人間は行き詰まったとき、なにかの試みをはじめます。いま「声に出して読む」ことが重視されているといいます。ことばがからだを通過しなければならないと、体罰や「いじめ」が悲惨な結果を生んでいるのは、イメージが欠乏しているせいでしょう。頭だけで考え、からだを通過していないからこういうことになってしまうのです。>
ことばがからだを通過しなければならない
なかなかいいことばです。私も、去年の4月から、「身口意」(からだ・ことば・こころ)の観点から、すべての授業で講義する内容を見直しているところです。「身口意」とは仏教で「三業」、カルマなんですけどね(^_^;)
イメージの欠乏
想像力の欠如、感受力の欠如については、過去のミクシイの日記でも書きました。
ところで、私は、NHK日本語センターの朗読理論が好きなので、そこを基本においていますが、永井さんのいう朗読の考え方もよくわかる。より深い朗読する力をつけるには、おすすめの一冊です。ただ、「朗読のヒント」とかかれているように、詳細のテクニックや技術が書かれているわけではありません。「ヒント」ですね。しかし、この「ヒント」は「生きるヒント」「考えるヒント」にもなります。
「生きるヒント」。そう、私はこの本を読んで、今年は<「動詞」で生きる>ということに心がけようと思いました。
どうも調子がわるいと、形容詞や形容動詞で生きている自分をみます。動詞で生きよう、これが今年の目標のひとつです。
もっとも永井さんがこの本で言われていることは、もっと奥が深い。朗読のヒントとして、「動詞で考える」ことの大切さをいわれています。わかりやすい例をだすなら、一読総合法という読解法があります。読みとったことを書き込むという方法があります。この際の書き込みを<書き込みは形容詞や副詞ではなく、動詞で書くべき」だということです。
「はじめて小鳥が飛んだとき」という題の詩があるとします。これを朗読するときに、「うれしそうに大きな声で」「ゆっくり」という書き込みをやっているのが一般だとすると、永井さんは「小鳥が飛んだんだ。ボク見てた。教えてあげるよ」と「書いてもらいたい」と言われます。
なぜか。
「私が動詞で考える、あるいは考えさせるのは、表現の指針となる形容詞や副詞を探すためではありません。たしかに表現はそのような技術で成立しているように見えます。しかし、表現は技術そのものではありません。指が華麗に動いて記号どおりに難曲が弾けたとしても、それが表現になったかどうかは別問題です。私はつねにこの根本から発想します。しがたって私も含めた表現者に要求するのは技術ではなく、正しく行動しているかどうかです。表現者が正しく行動すれば、おのずと正しく表現できるはずです。>
というわけです。動詞で考え、そのまま表現に入るそうです。そうすると「書き込みを動詞のままにしておけば子どもたちが技術に走ることはなくなるでしょう」と。間(ポーズ)についてもその考えは一貫していますね。
納得する部分もあります。NHK日本語センターでは「話すように読め」とつながってくるところもあるように私は思います。「話すように読め」とは、<話すときの息づかいで読め>ということです。話すときの息づかい、これが一様ではない、まさに「行動」です。そのための技術もあるにはあるのですが、永井さんのいうことととNHK日本語センター朗読理論をカレーライスのように、もう少し自分の中で熟成させてみたいと思う。
アニマシオンは、命を吹き込むこと。朗読も、命を吹き込むもっとも手近な読書のたのしみかたですし、レクリエーションのひとつです。
ちなみに、<「心の教育」には朗読がいちばん>というのは、『永井一郎の「朗読のヒント」』(ふきのとう書房)での章のタイトルです。
++++引用開始++++
芝居は朗読の勉強は、感情表現の勉強なんてことではなく、世の中とどう向き合っていくのかということを教えてくれます。だから「心の教育」につながってくるのです。
表現としての成果も大切ではありますが、ほんとうに大切なのは、朗読することで人間を考えるその過程です。文部省の言う「心の教育」で、朗読の時間が増えたなんてことになれば希望がもてるのですが・・・。
++++引用終了++++
これ、逆に、<人間を考えるその過程>のないものは心ないものであるということもできるかもしれません。こころしなければね(^_^)
(文責:穴見嘉秀(あなみ よしひで)@九州大谷短期大学表現学科情報司書フィールド助教授 a73@nifty.com )