このテーマ・ジャンルには、「本や読書に関する格言」や「お話」「逸話」をまとめていきます。
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・もともと戯曲の読み取りは、この「何故だろう?」「何故だろう?」を繰り返していくことで深まるもので、私はそれを「逆撫(さかな)でする」と言っているのだが、戯曲というものは概して毛並みに沿って読んだだけでは、劇の底のうねりも人物の心情も、本当にはよくわからないものなのだ。。(宇野重吉)
・ 私の戯曲の「逆撫で」式読み方と言うのは、つまりこういうことにひっかかって「何故だろう?」と考えることなのである。(宇野重吉)
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大学時代、自分の大学の教授の講義より、梅光女学院大学(現・梅光学院大学)の佐藤泰正先生の公開講座や公開セミナーを聞きにいっていました(^_^;) 漱石研究の第一人者ですからね。漱石、芥川、太宰、堀辰雄などいろいろなお話をお聞きしましたが、私は、佐藤先生のお話では、遠藤周作文学の話が一番好きです。
上記のことばは、昭和55年くらいの時に、佐藤先生の講義に出てきた本、宇野重吉著『チェーホフの『桜の園』について』からの引用です。この本は、演出ノートなのですが、戯曲のみならず、文学のよみかたでも同じことがいえるのではないでしょうか。
つまり、「逆撫で」読みとは、こういういことです。
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ネコがいます。ネコをなでるのに、毛並みに沿ってなでてもなんにもわからない。逆撫でしてごらんなさい。そこに、となりのネコとひっかかいたキズやらいろいろなものがみえる。文学作品を読むのも同じ。「何故だろう?」と疑問をもち、逆撫でするように、読もう!
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そんなふうに、佐藤先生は解説してくださいました。先日、佐藤先生が、うちの短大で講演されたあとの懇親会で、その話を私のほうからさせていただいたら、「この宇野重吉さんの本は、下手な研究書より研究的」とおっしゃっていました。
たとえば、
「ドゥニャーシャが蝋燭を持ち、ロパーヒンは本を手に、登場」
とのト書きがあります。
宇野さんは、この二人の登場の仕方を推測するのです。「ロパーヒンは、彼女にどれくらい遅れて入ってくるのか、一、二歩か、あるいはもっとか」。これを決めるのは「この部屋に入ってくるまでの二人が何処で何をしていたか、それから想定してかからねばならない」。ドゥニャーシャが「何処から、そして何のためにこの部屋へ入ってきたのだろうか?」と。
また、この「本」とはどういう本なのか。ここでは「本」としか書かれていません。「どういう種類の本だろか?大きさは?本の表紙の色は?」これを、ロパーヒンの性格、今の状況から宇野さんは推測するわけです。
まさに「一言一句」を「ゆるがせに」しない読みです。「劇の進行とは直接関係がないからこの「本」のことなど、あまり詮索することもなかろうと思われようが、ロパーヒンという人物を知る上では貴重な小道具だから粗末に扱えない」そうです。すごい!
『チェーホフの『桜の園』について』は、北九州に住んでいたとき、市民劇場の民芸の劇をやっていた会場で購入しました。今は市販されていないのでは? でも、日本の古本屋さんで手に入れることができます。おすすめです。
これ、書きながら、伊丹十三の「マルサの女」の映画づくりを思い出しています。映画の「進行とは直接関係がない」ところもきちんとつくっているんです。これもすごい! 『「マルサの女」をマルサする』というメイキングビデオがあります。これもおすすめです。メディアリテラシーとしても。
(文責:穴見嘉秀(あなみ よしひで)@九州大谷短期大学表現学科情報司書フィールド助教授 a73@nifty.com
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