うちの短大の表現学科には、私の所属する情報司書フィールドと、もうひとつ演劇放送フィールドがあります。
先日、演劇1年生の公演がありました。「スノーグース」という演劇のあと、「一人台詞」ということで、数名の学生さんが一人ひとり、台詞を舞台で演じていました。まさに、「台詞を演じていた」というべきものです。たとえば、私が観た日には、「山月記」の一部分がありましたが、「中島敦の小説の一節をを読む」というより、「リチョウの独白を演じる」というものでした。こういうものもあるのでしょうが・・・
私のめざす「朗読」と対極にあるものでした。
私が理想とする「朗読」とは・・・「NHK日本語センター」理論に基づく読みです。それは、日本語の文法法則や音声の特徴をきちんとふまえた読みです。読む人の、勝手な解釈・表現技術をできるだけおさえます。書いた人が「伝えたい意味内容」を、書いた人に代わって「伝える」朗読です。聞く人が、その朗読を聞いて、その聞き手なりの解釈で意味内容をイメージしやすい朗読です。しかし、これがとてもむずかしい(T_T)
野地潤家氏の「音読」のことは、一昨日、この日記に書きました。そのあと、何冊か野地氏の本を読んでいます。そのなかで、私の考えている朗読と同じことを、もっとわかりやすく書いている文章がありました! それは、丸山定夫というかたの文章です。このかた、「新劇の俳優」さんだったようです。
<「朗読研究」(野村政夫編、昭和19年3月31日、大阪日進社刊)に「声にださう」という論稿>(『国語教育の根源と課題』野地潤家著、昭和59年3月・渓水社)を書いているとのこと。孫引きで、漢字仮名づかいなどよみやすく変更していますが、以下引用します(^_^;)
++++引用開始++++
詩の美しさに充分打たれ、その感激を失わないように暖めながら、素直に、むしろ平板に過ぎるかと思われるくらい素直に読むのがよい。
むやみに言葉をふくらませたり、意味なく調子を上げ下げしないこと、やたらに激昂したり、感傷的になったりしないこと。必要以上に感激されたり怒号されたりするほど、聞く者の心を離れさせるものである。
おどる心を抑えてそれとなく話しかけうる者だけが相手の心をつかむのである。大声叱咤は瞬間人をはっとさせるが、長続きはしない。
幾度も素直に声を出しているうちに、ようやく自分の内包した感激に近い表現ができるようになる。
それは詩に限らない。文章でもそうである。話でもそうである。
++++引用終了++++
「平板に過ぎるかと思われるくらい素直に読」んだって、聞く人は感激・感動をあじわえる。大げさな表現をしなくても、聞き手の想像力が創造してくれる。それがいいですね。でも、それはむずかしい。動作を最小限におさえた「能」の境地かも(^_^)/
その演出家や、俳優がすきなら、その人の解釈によるものでもいいかもしれませんが、できれば、聞き手が聞き手自身の想像力・創造力を喚起できるようなものをめざしたいなと思っています。
P.S.
授業も講義も本来ならそういうのがいいですけどね(^_^;)。未熟な私は、まだまだそういう境地にたどりつけない。どうしても、学生さんをひきつけるために、「やたらに激昂したり、感傷的になったり」「必要以上に感激」大声叱咤」で「瞬間人をはっとさせる」ことのテクニックを駆使した授業をやっています(^_^;)
(文責:穴見嘉秀(あなみ よしひで)@九州大谷短期大学表現学科情報司書フィールド助教授 a73@nifty.com )