「デクライメイション(朗誦術)の可能性」というタイトルの昨日の日記のつづきです。
「デクライメイション」ということば、違う本でも読んだことがあるのだけど、何だったか思い出せずにいました。で、かたっぱしから本棚の本をとりだして、やっとみつけました。
『現代文の朗読術 実践編』(杉澤陽太郎・NHK放送研修センター日本語センター編/NHK出版)です。
その「まえがき」にこうあります。
++++引用開始++++
四十年ほど前、パリ大学教授だった森有正さんにインタビューしたとき、フランス語の例をあげ、「日本語が世界に通用するように整備されるまでには、日本人が、細心周到に努力しても、二,三百年はかかる」と話されたのを思い出します。たしかに、漢文を日本語に移し植え、使い勝手がいいように作り上げるのに、何百年もかかったのですから。
その森さんが、木下順二だんとの対談(『森有正対話篇1』筑摩書房)の中でこう言っています。
「フランス語には、まず文法があり、その文法によって、文章が書ける。会話が出来る。更にはデクラメーション(朗読)が出来る。だが、日本語はそうやっていない。日本語の文法を習ったからといって、それで文章は書けない。会話は出来ない。まして朗読は出来ない」と。(前掲書)
++++引用終了++++
『森有正対話篇1』(筑摩書房)、ぜひ読んでみたいです。
それと、ネットで検索してみると『シェイクスピアの世界』 (木下順二・岩波新書)にも、デクラメーションのことにふれられているみたいですね、これも読んでみたい! (ということで、この問題は、この二冊が届いてから、問いなおすことにしますm(_ _)m
上記、森さんのことば<それによって文章が書け、会話が出来、朗読が出来るという「文法」>ということで、先週の広島のことが思い出されます。
芸北からJR広島駅まで送ってくださった校長といろいろおはなししました。
今、広島は、ある特定の言語技術教育理論がはいってきているんだそうです。この理論はいいところもありますが、私は生きた日本語とは違うレベルであって、そこはおおいに考えなくてはいけないのではないかと思っています。
「○○さん、あなたは××がすきですか。」
「はい、私は××が好きです。なぜならば・・・だからです」。
一般的にはそう言わないでしょ(^_^;)。「ディス・イズ・ア・ペン」の世界ですね。「これはペンです」が英語教育でからかわれるメソッドなのに・・・。
国際化という発想で、そういうこともできるということは大切ですが、そこだけが強調されるのはどうもなぁ(-_-;)
I love you.
これを杓子定規に
「私はあなたを愛します」
って訳すのはいかがなものか。あるときは、
「死んでもいい!」
かもしれない。これが、生きたことば、生きた訳ですよね。
じゃあ、<それによって文章が書け、会話が出来、朗読が出来るという「文法」>、不自然でない日本語表現のための文法ってあるのか・・・・。
大学時代(私は昭和五十六年)、「国語表現法」という科目があって、そのとき『談話の文法』というのを買わされ、すこし講義も聴いたのですが、どうもいまいちでした。私の中で、未だ、問い続けている問題のひとつです。「整備されるまでには、日本人が、細心周到に努力しても、二,三百年はかかる」問題なのでしょうか。
P.S.
ちなみに、私の中では、「佐伯文法」が好きなんです(^_^)