木下順二さんがなくなられて、自分のもっている木下さんが書かれた文章をいくつか読み返しています。といっても、もう25年くらい前に買った本です。
そのなかのひとつが、『きくとよむ ことばの勉強2』(山本安英の会編・未来社刊・1974年)です。
この中で、デクライメイションということを言われています。木下さん、こんなことを言われています。
<テーマの一つは、デクライメイション―――強いて訳せば朗誦術の問題です。日本にはまだ方法論として定着していないデクライメイションの可能を探っていくという、初期からの懸案をかかえています。・・・>
これ、その後、木下さんの中では、どう探っていかれたのでしょうか?
「デクライメイション」、これ英語ですね。英国や米国ではどういうふうになっているのでしょうか?
時間がとれたら、調べてみたいことです。
もしご存じのかたがいらっしゃったら、ぜひ、お教えくださいm(_ _)m
この時点で木下さんのテーマは、あと2つありました。こう続きます。
<もう一つは、日本古典の原文による朗読はどこまで可能か、ということです。『平家物語』のなかから知盛の登場する部分をぬき出して構成した群読『知盛』は、その一つのケースですけれども、わかり易い現代語に翻訳してしまうのではなく意味がわかる、そういう方法はないものか。朗読の技術の問題だけではなく、俳優の”よみ”の深さにもかかわることだと思います。三番目は地域語、いわゆる方言の問題。(引用者中略)地域語をいわゆる「標準語」よりも価値が低いことばと考えるのではない。ことばそのものに価値の上下はなく、ただそれぞれの地域でしゃべられていることばとして再検討し、そのなかから日本語の可能性をもっとひき出していくための研究および討論を重ねていくこと、おの三つを勉強会のいわば三本の柱と考えていいのではないかと思います。>(前掲書9p~10p)
2つ目の問題は、「子午線の祀り」で木下さんの考えの結実としてみていいのではないかと思います。3つ目の問題は、「彦一ばなし」で、でしょうか。
地域語としての日本語の可能性ということでちょっと考えたことがあります。たとえ、地域語であっても、全国どこにいっても通じる豊かさというものです。先週、広島の芸北で子どもたちに「読書へのアニマシオン」ということで、本、詩をつかって遊んだのですが、もうね、話していて、博多弁がでるんですよ(*^_^*) あとでテープをきいてみたら、自分じゃ方言じゃないと思ってしゃべっていても、方言でてますもんね。でも、ちゃんと通じます。おわらいでも、ネゴなんとかという芸人、あれ、方言まるだしですが、でもわかりますよね(^_^)