スペインでモンセラさんはこんなことを言われてました。文責は穴見。
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・私たちの考え方では、「教授法didactica」と子どもの能力を引き出す「教育educacion」と区別している。
スペインの学校においては、指導すること「教授法」に限定されてしまっていて、子どもの能力を引き出す「教育」までは広がっていない。
・「教授法」というのは知識の分野、また、それは、客観的なものである。
・一方、子どもの意志を引き出す意味での「教育」とはどういうものか。ここ(教育)では、教授法での知識を尊重する。しかし、読書へのアニマシオン、子どもの力を引き出すという「教育」は、子どもの「意志」にかかわってくる。主観的なものである。子どもの本来の内面に関わる問題である。
<子どもの力を引き出す>意味での「教育」は、子どもの意志に働きかけるものであるので、子どもはそれに答えをかえしてくる。「読書へのアニマシオン」というのは、「教授法」ではない。私たちは子どもたちに読書の仕方を教えるのではない。たとえば、子どもは一応は、読むことができるとする。学校で習った読書の知識を持っている。だから、読もうと思えば、読めるんだけど、読む意志がない。
・私たちが何をしようとしてるか。子ども自身が自分の主人であり、自分の自発的な意志から、受け入れるということ。
・一つの作戦をするときに、子どもたちに対してアニマドールはこういうふうに本を読まないといけないとはいわない。アニマドールは、そのいくつかの可能性を提示して、子どもたちがそれに答えていくようなやりかたをする。
・だから、常に、私たちは読書へのアニマシオンは学校に授業とは違うと言っている。私たちは「教授法」について注文をつけようとしているわけではない。教授法は教授法としてそれで大切である。
・「こういうふうに書きなさい、それについて点数をつけます」など、それを遊びとかゲームと言っているようだが、それは、私たちのいう「遊び」ではなく、教授法の範疇にはいるやりかたである。ですから、国語の授業・文学の授業とと読書へのアニマシオンを区別する。
かといって、私たちは普通の教育「教授法」に反対をしているのではない。学校ではもちろん国語の授業も文学の授業もあるべきである。
・なぜこんな混乱が生じるかというと、国語の先生が、国語の授業でやるためにつくられたものではない読書へのアニマシオンをやろうとするから。それは、国語の授業でもなくなってしまうし、読書へのアニマシオンでもなくなる。ここをはっきりさせたかった。
・読書へのアニマシオンでは、国語の授業も文学の授業も充分に尊重する。でも、私たちがやろうとしているのはそれではない。
・(日本では授業でアニマシオンをやっていることが多いという指摘に対して)いろんなうやりかたがあってもいい。でも子どもが受身の読書を続けていれば、意味がない。
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どうまとめたら、「読書へのアニマシオン」が「朝の読書」と同様「有益」であるということができるか、思案中です。いろいろお知恵をお貸し下さい(^_^)/
本質がきちんと把握できていないと、間違った解釈をやってしまいかねません。
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2003年6月17日 アニマシオンメーリングリストで発言した内容を再構成しました。
(文責:穴見嘉秀(あなみ よしひで)@九州大谷短期大学表現学科情報司書フィールド助教授 a73@nifty.com
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