たまたま『永野&くるまの読む ひっかかりニーチェ』という本を見かけ、その本の冒頭の方を流し読みしていると、「男子校・女子校の存在にひっかかる」というような見出しがあった。

どうやら、この本はテレビ朝日の「永野&くるまのひっかかりニーチェ」という番組を書籍化したものらしいのだが、この本で令和ロマンの髙比良くるま氏は男女別学に否定的な意見を述べていた。

 

令和ロマン・くるま、“男女別学”は廃止にすべきと持論 「問題を先送りにしちゃってる」

 

この本には、髙比良氏のほか、永野という芸人や、三谷紬というアナウンサーが登場していたが、三谷氏は中高一貫の女子校に通っていたようで、女子校に肯定的な意見を述べていた。

ネットで調べると、筆者が読んだ箇所の大まかな内容が載っていたので紹介する。

 

 

視聴者が“なんだか妙に引っかかること”をお笑いタレント・永野さんとくるまさんにぶつける『永野&くるまのひっかかりニーチェ』(テレビ朝日)。今回は20歳の女子大学生からの“ひっかかっていること”を紹介。
以前くるまさんが「男子校や女子校を廃止したほうがいい」と話していたことに共感するという女性は、自身が中高6年間と大学も女子校だそう。
「共学を経験してこなかったせいで、異性との上手な関わり方がわからず、恋の仕方もわからないためキモいムーブをとってしまうことが多く、将来に不安を感じている」という悩みを打ち明けました。

 

そもそも“男女別学”は、男女の特性に応じて別々に教えることで、教育効果を高める・性差に合ったカリキュラムを組んでくれるとのメリットが挙げられていますが、女性は、自身の体験をもとに「このような弊害を抱える人が増加すると考えています」と考えを伝えます。
永野さんは「人じゃない?」とコメントしますが、くるまさんは「それが答え。結局人だからこそ『制度としては分けなくていいんじゃないの?』って話」と持論を展開。
中高6年間男子校だったくるまさんは「この人と同じように、多感な時期に異性との関わり方がわからなかったから、大学のときに上手くいかなかった」と振り返り、一部には、距離感がわからないゆえにセクハラじみた行動をしてしまう人もいると説明しました。

社会にでたら男女が分けられて働く環境は少ないため、くるまさんが「問題を先送りにしちゃってるじゃないですか」と説明すると、テレビ朝日アナウンサー・三谷紬さんは「それは絶対に違う!」と反論。
女子校出身の三谷さんは「男性がいないから重いものも女子でやる。誰かにもたれかかるんじゃなくて、1人で生きていけるようにちゃんと人間を作っていこうと育てられる」「社会人になっても、誰にもたれなくてもいい。共学ではそれは学べない」と、女子校だったおかげでたくましい人間になったと伝えました。

 

三谷アナの意見に、くるまさんは「“もたれない”という教育は素晴らしいけど、共学の上でその理念を唱えてやればいい」「(社会には)男性も女性もいるわけで。男女別学が社会実験になってないのよ」と、同性しかいない学校は、社会で起こる軋轢を事前に体験する場所になっていないと訴えます。
一部の学校では「同性だけで恋愛にうつつを抜かさないから、勉学や部活に集中できます」というような文言があることにも触れ、「そのときだけのメリット。勉強できて大学受かったら女性がいる。そのあとどうするんだよ!」「だから、なくしたほうがいいって言ってんの!」と熱弁しました。

 

 

個人的には、男女別学も男女共学もそれぞれに良さがあると考えている。

だから、共学校を廃止すべきとも思わないし、男子校や女子校を廃止すべきとも思わない。

しかし、髙比良氏の主張と三谷氏の主張であれば、後者の方が妥当なのかなと感じられてくる。

 

髙比良氏は「多感な時期に異性との関わり方がわからなかったら大学のときに上手くいかなくなる」と述べているが、確かに、幼児の頃から何十年も修道院で暮らしているような人であれば、急に男女が共に暮らしている普通の社会に来たとき、異性を見かけて戸惑うことがあるかもしれない。

この20歳の女子大学生も「ずっと同性ばかりの環境にいたから異性との上手な関わり方が分からない」と感じているようである。

しかし、男子校に通っていようが、女子校に通っていようが、寮生活でもしていない限り、異性と関わる機会は結構あると言えるのではないだろうか。

バイト先でもいいし、学習塾でもいいし、そもそも学校の教員や事務スタッフのなかに異性がいるケースは珍しくない。

異性の兄弟姉妹がいるのなら、そこから異性に関する話を聞くこともできるし、異性の兄弟姉妹がいない場合でも、異性のいとこと交流したり、部活などを経由して他の学校に通う異性の生徒たちと交流したりすることも考えられる。

 

余談だが、筆者は高校3年生あたりの時期に、一年ほど学習塾に通っていた。

その塾には凄く個性の強い女性スタッフがいた。

噂によると、彼女は中高が女子校で、筆者が塾にいた頃は東京女子医科大学の学生だったそうである。

彼女の髪型は印象的であった。

襟足以外の箇所は黒色や茶色や金色でそこまで奇抜なものではなかったものの、襟足の方だけは何故かレインボーのような色となっており、筆者は塾でその女性を見かけるたびに「なんて特徴的な髪型なのだろう」と感じたものだった(もっとも、筆者は二十歳ごろまで身体部位やファッション等に関するボキャブラリーをあまり持ち合わせていなかったため、当時はまだ襟足という名詞を知らなかったようにも思う)。

噂が正しければ、彼女は大学卒業まで最低でも12年ぐらい女性だらけの学校に通っている計算になり、当時の彼女はその期間の真っ只中であった。

しかし、筆者は彼女が塾で大きなトラブルを起こしたという噂を聞くことは一度もなかったし、彼女は筆者のような異性がたくさんいるバイト先で無難に仕事をこなしている様子だった。

「多感な時期に異性があまりいない学校に通ってしまうと、男女が共にいる環境で上手くいかなくなる」という主張がどれだけ実態に即しているのかは慎重に考える必要がある。

 

髙比良氏は「同性だけで恋愛にうつつを抜かさないから、勉学や部活に集中できます」というような文言に「そのときだけのメリット。勉強できて大学受かったら女性がいる。そのあとどうするんだよ!」と強弁しているが、多くの社会人にとって出身大学のランクがいかに重要であるかは論ずるまでもないことである。

日本の場合、大抵の学部(特に文系学部)は入学さえ出来れば割とスムーズに卒業できるし、大学で恋愛を楽しめるのか否かによらず卒業さえ出来れば名門大学卒という肩書は手に入る。

恋愛よりも受験勉強に集中して良い大学に合格することは「そのときだけのメリット」であるどころか「一生のメリット」であると考えられる。

 

高校まで恋愛と無縁だったが、大学以降に恋愛を楽しむようになった者は男女を問わず星の数ほどいるし、「高校まで学校内でモテモテだったが、学歴が微妙なまま社会人になった者」と「高校まで恋愛はおろか異性との青春らしい出来事も殆どなかったが、受験勉強に集中した結果、名門大学に合格できた者」であれば、後者の方が幸せな人生を送れる可能性は高いように見える。

事実、本郷学園という中高一貫の男子校に通っていた髙比良氏は高校を卒業したあと、慶應義塾大学という難関大学に合格しているし、2026年現在、MEGUMIという女性タレントとの恋愛を楽しめてもいる。

結局のところ、恋愛は大学生もしくは社会人になってからでも全然おそくないのだ。

 

因みに、髙比良氏は、「“もたれない”という教育は素晴らしいけど、共学の上でその理念を唱えてやればいい」や「(社会には)男性も女性もいるわけで。男女別学が社会実験になってないのよ」と語り、同性の生徒しかいない学校は社会で起こる軋轢を事前に体験する場所になっていないとも主張している。

髙比良氏は「どうせ社会に出たら、男女両方がいる環境が普通なのに、生徒や学生の期間だけ同性ばかりの環境にいたら実際の社会の予行練習にならない」という意見を持っているようである。

 

これに対しては「家業を継ぐことが期待されている御曹司が、大学卒業後に自分の家業とは異なる職場で働きがちこと」をイメージすると分かりやすいのかなと思う。

大企業の創業者の長男でもいいし、大物国会議員の長男でもいいのだが、基本的に、そのような御曹司は幼児の時点で、更に言えば母胎のなかにいる時点で「将来は親の後を継ぐこと」を期待される。

そうであれば、最初から、大学を卒業してすぐに親たちがいるような職場で働き始めてもよさそうなものだが、多くのケースにおいて、御曹司は大学を卒業した直後の時点では、親たちがいないような職場で働き始めることが多い。

その目的としては様々なものが挙げられるだろうが、最たる目的を挙げるならば、それは「親の七光りなしで働く経験を積ませるため」である。

大学を卒業したばかりの御曹司が、いきなり親たちがいるような職場で働き始めてしまうと、本人の上司にあたる立場の者たちがどうしても本人を厳しく教育できなかったり、職場で本人が腫れもの扱いされてしまったりする。

御曹司の親が御曹司の上司にあたる立場の者たちに幾ら「息子のことを特別扱いするなよ」などと口頭で伝えていたとしても、通常の新入社員と御曹司を分け隔てなく接することのできる勤め人は稀であるし、大抵の勤め人は「御曹司の親は確かに『息子のことを特別扱いするな』と言っているが、それを真に受けて御曹司を特別扱いせず御曹司が不適切なことをしたときにきちんと御曹司に注意や指導をしたら、御曹司に不満をもたれて自分の評価や出世に影響するのでは」といった不安をどうしても抱いてしまう。

 

容姿に恵まれていなかったり男子に嫌われていたりする女子を除けば、共学校では力仕事を女子の代わりに男子が担ってくれるというような事態がしばしば起こるが、「“もたれない”という教育は素晴らしいけど、共学の上でその理念を唱えてやればいい」という髙比良氏の意見は、「御曹司が親の七光りにもたれないようにするという理念は素晴らしいけど、最初から親たちがいる職場で、その理念を唱えてやればいい」と主張しているようなものなのである。

 

「どうせ社会に出たら、男女両方がいるのが普通なのに、生徒や学生の期間だけ同性ばかりの環境にいたら実際の社会の予行練習にならない」という意見に対しても、「それを言い出したら、同じような年齢の人ばかりを一つの教室に集めて学校生活を送らせるというポピュラーな学校教育の仕組み自体が相応しくないということになるのでは」と筆者は感じる。

 

新卒採用された新入社員たち(特に試用期間)とかであれば、同じような年齢の者たちが一つの場所に集められて会社側から研修を受けるのも珍しくないかもしれないが、確かに、いわゆる新入社員という段階を過ぎたホワイトワーカーたちは様々な年齢層の人々がいる職場で働くことが殆どだろうし、ブルーワーカーの場合は特にその傾向が強い。

つまり、実際の社会では、「似たような年齢の者たちが一つの場所に集まって長い時間、活動するというような状況」は頻繁に発生するものではない。

 

しかし、そうであるからといって「一つの学年の生徒たちを一つのクラス(学級)に編成する」という伝統的な仕組みが間違っていると考えるのは早計なように思う。

例えば、6歳や9歳や12歳や14歳や17歳や18歳の者が一つのクラスに集まっているような環境が教育にとって最適なのかと言われれば、それはやはり違うと考える人が多いのではないだろうか。

「一つの学年の生徒たちを一つのクラス(学級)に編成する」という仕組みが今に至るまで続いているのは、その仕組みに一定の合理性や有効性があるからである。

それでも「部活などで縦のつながりもある」と主張する人がいるかもしれない。

もちろん、生徒個人が部活などで上級生や下級生と交流する分には自由である。

さきほど述べたように、生徒個人が部活などを介して他の学校の生徒たちと交流するのは悪いことではないし、部活において縦のつながりと呼ばれるものが形成されるのは事実であろう。

しかし、部活は学習指導要領において教育課程外の活動とされており、本来は学校生活のおまけでしかない。

そもそも、最近は部活そのものを縮小・廃止する動きが広がりつつあるし、部員間の年齢差は通常3年ほどであり、中高一貫校でもせいぜい6年ほどである。

大抵の職場には10代~20代の若年層から60代~70代のシニアに至るまで様々な年齢層の者がいる訳で、「部活等における縦のつながり」といっても、それは社会人になってからの環境とあまり似ていないものである。

 

実際の社会で「似たような年齢の者たちが一つの場所に集まって長い時間、活動するというような状況」がそこまで発生しないからといって、「似たような年齢の生徒たちを一つの場所に集めて活動させるという仕組み」が間違っているとは必ずしも言えないように、実際の社会で「同性の者たちが一つの場所に集まって長い時間、活動するというような状況」がそこまで発生しないからといって、「同性の生徒たちを一つの場所に集めて活動させるという仕組み」が間違っているとは必ずしも言えないのだ。

 

男子校や女子校が修道院レベルで同性しかいないような環境であるならば、男女が共に暮らしている普通の社会に出たときにどうするのかといった話が出てくるのも分かるが、通常の男子校や女子校はそこまで異性の人間と接する機会が乏しい環境ではないし、男子校出身者だろうと女子校出身者だろうと共学出身者だろうと、卒業後に男女両方が存在する社会で活躍していくことは可能なのではないだろうか。