日本語の文法書では「助動詞『たい』や『たがる』は、希望や欲求を表す。助動詞『たい』は主語が語り手のときに用い、それ以外は助動詞『たがる』を用いる」などと書かれていることが多い。

筆者が中学生の頃に読んだ国語の文法のテキストにも、そう書かれていた記憶がある。

だが、実際の日本語では、語り手以外が主語となっているのに助動詞「たい」が用いられていることは珍しくない。

例えば、筆者が考えた以下の会話文を見てみよう。

 

娘「わたしドイツに留学したいの。」

母「海外は危ないから行かない方がいいって、前にも言ってるでしょ。」 

娘「でも、どうしてもドイツで勉強したいの。いま留学しなかったら一生、後悔すると思うし。」 

母「わかったわ。そんなに留学したいならドイツに行ってもいいわよ。」

 

この会話文で「そんなに留学したいなら」を「そんなに留学したがっているなら」にすると、日本語としておかしくなってしまう。

 

他にも「鈴木美咲さんは、いつか、職場にいるハンサムな男性と結婚したいそうだ」といった例文を考えてみよう。

この例文において「結婚したい」のは「この例文の語り手」ではなく「鈴木美咲さん」である。

 

文学作品は、三人称小説の形式で制作されたものが少なくない。

太宰治の『走れメロス』も典型的な三人称小説である。

実際に本作を読むと、「メロスは」から始まる文が多数あることが分かる。

ここで、『走れメロス』の或る箇所を引用しようと思う。

 

メロスは、わが身に鞭打ち、ついに出発を決意した。あすの日没までには、まだ十分の時が在る。ちょっと一眠りして、それからすぐに出発しよう、と考えた。その頃には、雨も小降りになっていよう。少しでも永くこの家に愚図愚図とどまっていたかった。メロスほどの男にも、やはり未練の情というものは在る。

 

愚図愚図は「ぐずぐず」と読むが、「少しでも永くこの家に愚図愚図とどまっていたかった」の主語を補うと、「メロスは少しでも永くこの家に愚図愚図とどまっていたかった」となる。

これを「メロスは少しでも永くこの家に愚図愚図とどまりたがっていた」などとしてしまうと、不自然な言い回しになってしまう。

 

以上で挙げた例を踏まえると、「助動詞『たい』は、その人の希望や欲求を、その人の内面から直接的に捉えた表現であり、助動詞『たがる』は、その人に現れている希望や欲求を、語り手が外側から観察したり描写したりした表現である」と考えられるのではないだろうか。

このように考えると、「そんなに留学したがっているなら」よりも「そんなに留学したいなら」の方が自然な言い回しになるのも納得できる。

母が娘の留学を認めたのは、娘の留学したいという熱意を理解し、留学への熱意に燃えている娘の内面を把握したからである。

「メロスは少しでも永くこの家に愚図愚図とどまりたがっていた」よりも「メロスは少しでも永くこの家に愚図愚図とどまっていたかった」の方が日本語としてしっくりくるのも、語り手である筆者の太宰治がメロスの希望や欲求をメロスの内面から直接的に述べているからである。

 

結局のところ、「助動詞『たい』は主語が語り手のときに用い、それ以外は助動詞『たがる』を用いる」といった説明は、日本語の文法を学んでいる初心者向けに考えだされた簡易的な文法解説であり、正確には「助動詞『たい』は、その人の希望や欲求を、その人の内面から直接的に捉えた表現であり、助動詞『たがる』は、その人に現れている希望や欲求を、語り手が外側から観察したり描写したりした表現である」と認識すべきなのだろう。