成馬零一というプロのライターが漫画『アクタージュ』に関する書評を発表した。

 

『アクタージュ act-age』が見出した“表現の哲学” メソッド演技と作品の進化を考察 (魚拓 page

 

この書評の内容が妥当か否かを論じていく。

なお、以下において成馬氏の文章からの引用箇所は赤字で表記されている。

 

 

 

先日、『週刊少年ジャンプ』(集英社)での連載が二周年を突破した『アクタージュ act-age』は、マツキタツヤ(原作)と宇佐崎しろ(漫画)による演技を題材にした漫画であると同時に優れた表現論である。本作は、高校生の夜凪景(よなぎ けい)が映画監督の黒山隅字(くろやま すみじ)に才能を見いだされ、様々な俳優、演出家と対峙する中で俳優として成長していく物語だ。

「黒山隅字」って黒山墨字のことかな?

誤字脱字はどんなライターもしてしまうことかと思うが、page1で「宇佐崎しろ」を「宇佐崎ひろ」と間違っているのは笑ってしまった。

どうやら成馬氏はアクタージュを「演技を題材にした漫画であると同時に優れた表現論」とみなしているようだ。

 

 

 

夜凪と千世子の対比を見て『ガラスの仮面』(白泉社)の主人公・北島マヤとライバル・姫川亜弓の関係を思い出す人は少なくないだろう。美内すずえの『ガラスの仮面』は、演劇漫画のパイオニアとしてはもちろんのこと、少女漫画の古典と言える現代漫画の金字塔だが『アクタージュ』のキャラクター配置や物語の展開を見ていると『ガラスの仮面』からの影響を強く感じる。

『アクタージュ』の主な読者層は10~40代かと思うので、「北島マヤや姫川亜弓って誰?」という人も多い気はするが、ネットで北島マヤや姫川亜弓について検索すると、北島マヤは夜凪同様に白黒ページで髪が黒く描かれているキャラであり、姫川亜弓は千世子同様に白黒ページで髪が白く描かれているキャラなので、『ガラスの仮面』を読んだことのある人からすればそうなのかもしれない。
 
 
 
中でも強い影響を感じるのは、演じる演劇と俳優の現実がシンクロしていく虚実混合の展開だろう。『ガラスの仮面』も『アクタージュ』も、ヒロインが演じる役柄と彼女の感情と現実が重なり合っていくことで、物語のテンションを極限まで高めていく。つまり、物語構造自体がメソッド演技の手法と(虚実を融合させる)哲学によって作られているのだ。
日本語が分かりにくい。「ヒロインが演じる役柄と彼女の感情と現実が重なり合っていく」の部分は「『ヒロインが演じる役柄』と『彼女の感情と現実』が重なり合っていく」という意味なのだろうが、「『ヒロインが演じる役柄』と『彼女の感情』と『現実』が重なり合っていく」とも取れてしまう。
あと、「彼女の感情と現実」という表現自体が日本語として不自然すぎる。英文を和訳しているのかってレベルでぎこちない。
『アクタージュ』の主人公は、演技が迫真過ぎて周囲の人々の心理に大きな影響を及ぼすことがあるが、「演じる演劇と俳優の現実がシンクロしていく虚実混合の展開」とは言い難い。
主人公は演技の精度を高めるために自分の経験や心理を参考にしているが、あくまでそれはメソッド演技と言う手法であり、(自分自身の経験から築かれた人生観・世界観などを意味する)哲学ではない。
少なくとも、「(虚実を融合させる)哲学」という表現は大袈裟であろう。
 
 
 
同時に『アクタージュ』は制作手法もまた、メソッド演技法に近しいものとなっているのではないかと思う。
「近しい」(ちかしい)ねえ。その形容詞を見聞きしたのは四年ぶりかも知れない。四年前に帰省先で、祖父母の知り合いの老女がその形容詞使っていた記憶がある。それくらい古風な形容詞なのだろう。
 
 
 
作画を担当する宇佐崎ひろは現在22歳の若手漫画家。元々twitterにファンアートや漫画を投稿していたが、『週刊少年ジャンプ』の漫画賞「ストキンPro」で準キングを受賞した『阿佐ヶ谷芸術高校映像科へようこそ』の作画担当としてマツキタツヤに指名されたことで、19歳の時に漫画家デビューを果たした。
『阿佐ヶ谷~』は黒山が登場する『アクタージュ』の前日譚的な話なのだが、『アクタージュ』を読んでいると黒山墨字(演出家)と夜凪(俳優)の関係が、マツキと宇佐崎の関係に思えてくる。
黒山の難題に答えることで、夜凪が役者として表現力を獲得していく姿をなぞるかのように、宇佐崎の絵は進化していく。当初は夜凪こそ強烈な実在感を放っていたが、彼女を取り巻く背景の描写はスカスカでどこかぎこちなかった。それはそのまま夜凪の演技が、自分の感情しか表現できていない姿を思わせるのだが、巻が進むごとに背景も精密に書き込まれるようになっていき、キャラクターの表情や振る舞いも実在感が増していく。つまり夜凪の世界が広がっていく姿が、そのまま作画にも反映されているのだ。
アクタージュの場合、背景は主にアシスタントが描いている。つまり「巻が進むごとに背景も精密に書き込まれるようになっていき、キャラクターの表情や振る舞いも実在感が増していく」に関しては、「宇佐崎の画力が進化している」という側面よりも、「作画アシスタントの腕が上がっている」という側面のほうが大きいと思われる(参考画像1参考画像2)。
それゆえ「黒山の難題に答えることで、夜凪が役者として表現力を獲得していく姿をなぞるかのように、宇佐崎の絵は進化していく」や「夜凪の世界が広がっていく姿が、そのまま作画にも反映されているのだ」という部分に関しては疑問が残るが、「黒山墨字(演出家)と夜凪(俳優)の関係がマツキと宇佐崎の関係に似ている」というのは同感である。
 
 
 
同時に『アクタージュ』が興味深いのは、メソッド演技という手法が生み出す表現の魅力と危うさを描きながら「どうやって現実に戻ってくるのか」という帰還方法を描いていることだろう。
劇中に登場する俳優・明神亜良也は演技を海中に潜ることに例えており、どれだけ深く潜っても「それを海上まで引っ張り上げないと演劇じゃ通用しないんだよ」(第4巻)と語る。黒山も『銀河鉄道の夜』の公演を終えた後、夜凪への仕事をすべて断り「自分の定義を増やせ」と言い「学校で役者じゃない普通の友達を作って来い」と命じる(第7巻)。
ひたすら潜るのではなく、演技と現実の往復。海上に潜った後、地上に引っ張り上げる力にこそ『アクタージュ』は、表現の本質を見出そうとする。これは「表現とは観客に伝わって、はじめて成立するものだ」と言い換えることも可能だろう。『週刊少年ジャンプ』という大メジャー漫画雑誌だからこそ出てきた、開かれた表現論である。
「海上に潜った」は「海に潜った」だろうか。いずれにせよ<海上に潜った後、地上に引っ張り上げる力にこそ『アクタージュ』は、表現の本質を見出そうとする。これは「表現とは観客に伝わって、はじめて成立するものだ」と言い換えることも可能だろう>というのは論理が飛躍しているように思う。
原作者のマツキは「アクタージュは主人公が人間らしさを獲得していく物語」と述べており、「海上に(海に)潜った後、地上に引っ張り上げる」というのは、「表現とは観客に伝わって、はじめて成立するものだ」というメッセージではなく、寧ろ「劇が終わると同時に人間らしい普通の自分に戻る」ということを指していると思われる。
<『週刊少年ジャンプ』という大メジャー漫画雑誌だからこそ出てきた、開かれた表現論である>とあるが、知名度の差を除けば、メジャーな漫画雑誌であろうと、無名の漫画雑誌であろうと、読者に開かれているという点では変わらない。この記事で成馬氏は『アクタージュ』を「一種の表現論」と捉えているが、この書評を読む限り『アクタージュ』が「優れた表現論」と言える根拠は薄いように思われる。
 
 
 
以上が成馬氏の書評なのだが、アクタージュを「優れた表現論」とみなしていたり、アクタージュのどの要素が「表現の哲学を見出している」と言えるのか等の疑問点があったりと、全体的に妥当とは言い難い内容の書評であるように感じられた。
 
文末に<■成馬零一 76年生まれ。ライター、ドラマ評論家。ドラマ評を中心に雑誌、ウェブ等で幅広く執筆。単著に『TVドラマは、ジャニーズものだけ見ろ!』(宝島社新書)、『キャラクタードラマの誕生:テレビドラマを更新する6人の脚本家』(河出書房新社)がある。>などと書かれているが、この方はどうして『TVドラマは、ジャニーズものだけ見ろ!』とか、そんな恥ずかしい題名を自分の著作物に付けることが出来たのだろうか……。

 

 

 

 

 

2020年6月3日追記

成馬氏は6月1日にも<『アクタージュ』は「すぐれた表現とは何か」を探求する 全クリエイター必読の演劇漫画を考察>という記事を書いているようだ。この記事はYAHOOニュースにも転載されたが、記事の内容はコメント欄の文章よりお察しの通り。