私は小説などを書くことが生き甲斐だが、今のところプロの文筆家になろうとは考えていない。

完成度の高い作品を書いた作者が、存命中に正当な評価を受けなかった例は、歴史上存在する。

今の自分みたいにアマチュア精神を貫いていれば、自作が売れていなくても気にする必要はない。

だが、プロとなれば、売れる作品を書かねばならなくなる。

ある作品が売れるか売れないかは、どうしても運の要素が強くなってしまう。

つまり、アマチュアならば自分の理想を思うがままに追求できるのに、プロだと運に左右される立場になりがちなのだ。

それが、自分がアマチュア精神を望ましいと考えている最大の理由である。

 

母校の後輩で、ラノベ新人賞に挑戦している青年がいる。

その後輩の応援のため、その新人賞を調べたり、その後輩の作品の意見文を書いたりするようになった。

そのうち、以下の事実を知るようになった。

ラノベなどの新人賞は一次選考→二次選考→最終選考という順をたどる。

二次選考の後に三次選考が入ることもある。

最終選考は有名人が選者となる。

二次選考(と三次選考)は文学の専門家やその業界に精通している人が選者となる。

新人賞の運営によっては二次選考(と三次選考)の選者を公表している場合もある。

そして、一番ブラックボックスなのは一次選考だ。

一次選考は下読みとされる人たちが担当する。

下読みの方の質はばらつきが大きく、最終選考まで残るレベルの作品を酷評するような「質の悪い」人も、実は少なくないのだ。

 

公募で届く、数百~数万の作品は(大抵は複数の)下読みの人たちに、決められた作品数ごと割り振られる仕組みだ。

一次選考で下読みの人から評価を受けられなかった作品は二次選考まで行くことなく、落選となる。

つまり、一次選考であなたの作品の下読みをすることになった人があなたの作品を読み、

あなたの作品を良い作品と評価しなければ、落選となるということだ。

 

かつては、「日本語がきちんと書かれていて、作品としての体裁が整っていれば、一次選考は通る」と言われていた。

だが、二次選考に進む作品が全体の1割前後(賞によって差はある)であることを考えれば、

どうやら最近は一次選考の段階でかなりの数が落選しているとみて間違いない。

明らかな愚作が、一次選考で落ちるのは当然のことだ。

だが、下の事件を知り、私は驚愕した。 

 

第23回電撃小説大賞受賞作『86 ―エイティシックス―』は、当時かなりのインパクトを持って世に送り出され、大きな好評を得る結果となりました。

「『86』は前年の電撃小説大賞にも応募していたのだが、一次選考で落選してしまった。その作品の最後に2ページ加筆して再度応募したら、今度は大賞を獲ってしまった」

もちろん、小説というものは、ラスト2ページがそれまでの内容の価値を大きく変えてしまうこともあり得るメディアなので、前年度の『旧86』が失礼ながら大した作品ではなく、受賞した『86』が傑作であったと単純に考えることも、一応可能ではあります。

しかし常識的に考えて、一次落ちと大賞ではいくら何でも結果が違いすぎです。

前年度に『旧86』を落とした下読みさんに、翌年の『86』を読ませたら、果たしてそれを、大賞に値する作品であると評価していたのでしょうか。

また、ラスト2ページを加筆しただけで再度応募したということは、全体の文章のほとんどが前年度のままであったということになります。

つまり、『旧86』の段階で、すでに日本語的には大賞を獲れる器であったわけです。

これこそまさに、現代の一次選考が「日本語の不出来で落としているわけではない」ことを示す、何よりの根拠になるでしょう。

 

結論を言えば、一次選考は運の要素がかなり強いということだ。(上記で引用したサイトを是非、読んでほしい。)

 

つまり、後世の人々が評価するような作品をあなたが書いたとしても、その作品が公募の新人賞なりで、正当な評価を受けられる保証はどこにもないのだ。

また、プロを目指して新人賞を狙うようになると、そのうち自分の理想とする作品ではなく、新人賞で受けが良さそうな作品を書くようになってしまいかねない。

 

だから、新人賞は本気でプロを目指している人以外は、そこまで投稿するメリットがないのでは、と自分は考えている。

 

結論。新人賞はプロを狙う一部の人以外は、極力、出さない方が良いのかもしれない。出すにしても自制的に。