小塚原刑場(フィールドワーク) | やさしい社会ブログ

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江戸時代の死刑囚の運命

江戸時代の未決の人々は伝馬町牢屋敷(現在の日比谷線小伝馬町駅付近)に収容されていました。ちなみに懲役や禁固という刑罰は無く、したがって刑務所はありません。伝馬町牢屋敷は未決の囚人を収容する拘置所に相当するものです。

当時は

殺人は死刑 10両盗んだり、詐欺をしたら死刑 W不倫は死刑 放火も死刑

と、やたら死刑が多いのですが、大部分は伝馬町牢屋敷で死刑は執行されたようです。
そして、死刑にも六種類ありました。軽い順に、下手人(げしゅにん 牢の中で首を斬られる。この刑のみ死体の埋葬も可能)、死罪(しざい 首を斬られたあと遺体を使って「様斬(ためしぎり)」をされた。遺体は刑場にほとんど放置。野犬などに食べられる)、獄門(ごくもん 首を斬った後、その首を牢獄の門や刑場の木架の上などに3日間さらす)、(はりつけ罪人を板や柱などに縛りつけ、槍などを用いて殺す公開処刑)、鋸挽(のこぎりびき 罪人の首だけが地面から出るようにした上で3日間見せ物として晒した。その際、罪人の首の左右にタケの鋸と鉄の鋸を立てかけておいたが実際に鋸で首を挽くことはなく、晒した後市中引き回しのうえで磔とした。 主人殺しに適用)、火罪(かざい 火あぶり。放火犯に適用)がそれです。
火罪、磔獄門は刑場で行います。江戸時代は小塚原刑場(南千住)と鈴ヶ森刑場(品川)と大和田刑場(八王子)がありました。今回は、小塚原刑場跡に来ました。南千住で降りると

が見えます。でっかい葵の御紋が目印。これが、小塚原刑場跡、現在では回向院と呼ばれています。↑↓


 

中に入ると墓があります。吉田松陰、橋本佐内など何人かのお墓があります。しかし、ここで処刑された人はおよそ20万人とも言われています。こんなお墓もあります。罪人ではないんですけど↓カール・ゴッチの墓です。

アントニオ猪木氏や西村修氏などが建立したらしい。

なお、ここでは罪人の死体の腑分け(解剖)もおこなわれていたようです。解体新書もこの地から始まったのですね。↓

さて、隣には延命寺があります。

ここも小塚原刑場跡です。そして、ここには罪人の供養をするために建てられた首切り地蔵があります。↓けっこうでかいです。

ところで、ここから10分ほど歩くと泪橋交差点があります。昔の江戸は運河だらけ。あちこちに運河やら橋があったのですが、泪橋という橋はありません。しかし、かつてはありました。泪橋いわば、刑場への入り口に相当します。ここで、罪人は今生の見納めをし、罪人の関係者はここで罪人の見送りをし、互いに涙(泪)を流したことが地名の由来です。刑場のそばには泪橋という地名が多いです。

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泪橋といえば明日のジョーですね。記念写真を撮りました。

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