2022年9月1日FB投稿記事より

 

皆様 おはようございます。

今年ももう九月になりましたね、九月は長月(ながつき・ながづき)と呼ばれ、日増しに夜が長くなるので「夜長月」となりそれが「長月」になったと言われています。

それでは今月の一句

『 旅の日の いつまで暑き 彼岸花 』 臼田亞浪 作

意味: 旅をしている間のいつまで暑いのだろうか、彼岸花。

さて今月の「御朱印・法華経二十八品の心」は法華経「随喜功徳品第十八」をご紹介致します。

前の「分別功徳品第十七」では教えを他人に弘める功徳について説かれていましたが、「随喜功徳品」には、『法華経』の教えを弘める功徳に付いて、特に初随喜・・・随喜(信随して歓喜する事)の功徳について説かれています。

随喜功徳品の大要

前の「分別功徳品」において四信五品の教えを聴聞した弥勒菩薩は、お釈迦様に向かって、「もし善男子・善女人(法華経を信じる男女)が、この法華経を聞いて随喜するならば、どれほどの福徳が得られるのでしょうか?」と問いかけられました。

その時、お釈迦様は弥勒菩薩に語ります。

 「道輪廻するものが、生涯布施をして、八解脱をそなえようとしても、功徳の多さは、法華経を一偈聞いて喜びを生じることの方が多いのです。」

法華経を聞くだけでとっても功徳があるのです。・・・「聞法結縁」(もんぽうけちえん)と言い「仏法をきくことが功徳であり、仏様の救いにあずかる事を意味しています。

五十展転(てんでん)について・・・

数多くの功徳を積んだ人よりも、寿量品の教えの喜び(その素晴らしい教えを知り、それに出会えたことの喜び)を50番目に伝え聞いた人の功徳の方が大きいと説かれます。

功徳とは長者の八十年の限りない物質的な布施よりも、法華経の教えによって人を導くことの方が大事なことなのだよ!また、自分だけの救いを求めるのでなく、みんなの幸福を願うのでなければだめなのだよ!と説かれています。

つまり、自ら多くの功徳を積んだ人よりも、寿量品の教えを間接的かつ50人目で聞いて随喜した人の方が、遙かに大きな功徳が得られるということなのです。

ひとりの人が、自分が聞いた教えの喜びを、50人の人に次々と伝えた功徳を「五十展転随喜の功徳」と言います。

初随喜について・・・

初随喜とは、端的に言えば法華経の教えをすなおに喜んで受け入れたにすぎず、言い換えれば初心者なのです。しかしその得るところの功徳というものは、かの長者が一生をかけて実践した布施の功徳や、きびしい修行の果てに到達した悟りの何倍にもまさるということなのです。

今月の教えは・・・

      言 此 経 深 妙

      千 万 劫 難 遇

(この経は深妙なり 千万劫にも遇い難し)

法華経に出会えるということは人生で一番難しいことかもしれません。なぜなら千万劫という教えることができないくらいの時間があっても出会うことは難しいと説かれているからです。私たちはどれくらいの時間・命・一生を輪廻転生して苦しんできたのでしょうか。それも今生が最後!なぜなら法華経に出会えたのですから♪ 心から法華経を信仰していきましょう。

     妙法蓮華経随喜功徳品第十八抜粋

爾時弥勒菩薩摩訶薩。白仏言。世尊。若有善男子。善女人。聞是法華経。随喜者。得幾所福。

(訳)爾の時に弥勒菩薩摩訶薩、仏に白して言さく、世尊、若し善男子・善女人あって是の法華経を聞きたてまつりて随喜せん者は、幾所の福をか得ん。

而説偈言 世尊滅度後 其有聞是経 若能随喜者 為得幾所福

(訳)而も偈を説いて言さく、

世尊滅度の後に 其れ是の経を聞くことあって

若し能く随喜せん者は 幾所の福をか得べき

爾時仏告。弥勒菩薩摩訶薩。阿逸多。如来滅後。若比丘。比丘尼。優婆塞。優婆夷。及余智者。若長。若幼。聞是経随喜已。従法会出。至於余処。若在僧坊。若空閑地。若城邑巷陌。聚落。田里。如其所聞。為父母宗親。善友知識。随力演説。是諸人等。聞已随喜。復行転教。余人聞已。亦随喜転教。如是展転。至第五十。

(訳)爾の時に仏、弥勒菩薩摩訶薩に告げたまわく、阿逸多、如来の滅後に、若し比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷及び余の智者、若しは長若しは幼、是の経を聞いて随喜し已って、法会より出でて余処に至らん。若しは僧坊にあり、若しは空閑の地、若しは城邑・巷陌・聚落・田里にして、其の所聞の如く、父・母・宗親・善友・知識の為に力に随って演説せん。是の諸人等聞き已って随喜して復行いて転教せん、余の人聞き已って亦随喜して転教せん、是の如く展転して第五十に至らん。

弥勒白仏言。世尊。是人功徳。甚多無量無辺。若是施主。但施衆生。一切楽具。功徳無量。何況令得。阿羅漢果。

(訳)弥勒、仏に白して言さく、世尊、是の人の功徳甚だ多くして無量無辺なり。若し是の施主、但衆生に一切の楽具を施さんすら功徳無量ならん。何に況んや阿羅漢果を得せしめんをや。

仏告弥勒。我今分明語汝。是人以一切楽具。施於四百万億。阿僧祇世界。六趣衆生。又令得阿羅漢果。所得功徳。不如是第五十人。聞法華経一偈。随喜功徳。百分千分。百千万億分。不及其一。乃至算数譬喩。所不能知。阿逸多。如是第五十人。展転聞法華経。随喜功徳。尚無量無辺。阿僧祇。何況最初。於会中聞随喜者。其福復勝。無量無辺阿僧祇。不可得比。

(訳)仏、弥勒に告げたまわく、我今分明に汝に語る、是の人一切の楽具を以て四百万億阿僧祇の世界の六趣の衆生に施し、又阿羅漢果を得せしめん。所得の功徳は是の第五十の人の法華経の一偈を聞いて随喜せん功徳には如かじ。百分・千分・百千万億分にして其の一にも及ばじ。乃至算数・譬喩も知ること能わざる所なり。阿逸多、是の如く第五十人の展転して法華経を聞いて随喜せん功徳、尚お無量無辺阿僧祇なり。何に況んや、最初会中に於て聞いて随喜せん者をや。其の福復勝れたること無量無辺阿僧祇にして、比ぶること得べからず。

爾時世尊。欲重宣此義。而説偈言

(訳)爾の時に世尊、重ねて此の義を宣べんと欲して、

偈を説いて言わく、

若人於法会 得聞是経典 乃至於一偈 随喜為他説

如是展転教 至於第五十

(訳)若し人法会に於て 是の経典を聞くことを得て

乃至一偈に於ても 随喜して他の為に説かん

是の如く展転して教うること 第五十に至らん

最後第五十 聞一偈随喜 是人福勝彼 不可為譬喩

如是展転聞 其福尚無量 何況於法会 初聞随喜者

(訳)最後第五十の 一偈を聞いて随喜せん

是の人の福彼れに勝れたること 譬喩を為すべからず

是の如く展転して聞く 其の福尚お無量なり

何に況んや法会に於て 初に聞いて随喜せん者をや

若有勧一人 将引聴法華 【言此経深妙 千万劫難遇】

即受教往聴 乃至須臾聞 斯人之福報 今当分別説

世世無口患 歯不疎黄黒 唇不厚欠 無有可悪相

舌不乾黒短 鼻高修且直 額広而平正 面目悉端厳

為人所憙見 口気無臭穢 優鉢華之香 常従其口出

(訳)若し一人を勧めて 将引して法華を聴かしむることあっ【言わん此の経は深妙なり 千万劫にも遇い難しと】

 即ち教を受けて往いて聴くこと 乃至須臾も聞かん

 斯の人の福報 今当に分別し説くべし

 世世に口の患なく 歯疎き黄黒ならず

 唇厚く・欠ならず 悪むべき相あることなけん

 舌乾き黒短ならず 鼻高修にして且直からん

 額広くして平正に 面目悉く端厳にして

 人に見んと憙わるることを為ん 口の気臭穢なくして

 優鉢華の香 常に其の口より出でん

若故詣僧坊 欲聴法華経 須臾聞随喜 今当説其福

後生天人中 得妙象馬車 珍宝之輦輿 及乗天宮殿

(訳)若し故らに僧坊に詣いて 法華経を聴かんと欲して

 須臾も聞いて随喜せん 今当に其の福を説くべし

 後に天人の中に生れて 妙なる象馬車

 珍宝の輦輿を得 及び天の宮殿に乗ぜん

若於講法処 勧人坐聴経 是福因縁得 釈梵転輪座

(訳)若し講法の処に於て 人を勧めて坐して経を聴かしめん

 是の福の因縁をもって 釈梵転輪の座を得ん

何況一心聴 解説其義趣 如説而修行 其福不可限

(訳)何に況んや一心に聴き 其の義趣を解説し

 説の如く修行せんをや 其の福限るべからず

本日も長文を最後までお読みいただきありがとうございます。

ご縁に感謝 合掌🙏

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