2022年7月1日 FB投稿記事より

 

皆様おはようございます!

暑い日が続いていますが、お元気でお過ごしでしょうか?適度な水分補給、冷房をお願いいたします。🙏

今年も早や半年を経過し、七月に入りましてね!

昨日は30日で妻も旅立って7ケ月が経過しました。今月七月は文月(ふずき、ふみづき)ともよばれ、文月の由来は七月七日にの七夕に詩歌を献じたり、書物を夜風に曝したりする風習があるからというのが定説となっています。

それでは今月の一句

『 一点の 偽りもなく 青田あり 』 山口誓子作

意味:この見渡す限り青々とした水田の美しさは、まったくもって美しく、私はとても感動していますとの意味です。

さて今月の「御朱印・法華経二十八品の心」は法華経「如来壽量品第十六」をご紹介致します。

今から2500年程昔、釈迦族の皇太子であられたお釈迦様は、29歳の時に妻のヤショーダラ妃と息子であるラゴラを残し、カピラバストーの城から一切衆生の苦しみを救う真理を求めて出家修行の旅に出られました。そして、6年後の12月8日、現在のブッダガヤーの菩提樹の下に坐し、お悟りを開いて仏陀(覚者)となられたのです。成道後四十年近くは、仏弟子や人々の求めに応じて、彼らを導くために隨他意(ずいたい)の教えを説き、八十歳でご入滅になるまでの晩年の八ヶ年、現在のラージギル、かつてのマガダ国の王都王舎城にある霊鷲山で、ご自身の悟りのままの隨自意(ずいじい)の教えを説かれたのが法華経であり、その中心が如来寿量品第十六なのであります。

如来壽量品の大意

前章の従地涌出品(じゅうじゆしゅつほん)第十五にて、今までに見たこともない、地より涌出せる無数の菩薩達はどういう意味の菩薩たちなのか、という弥勒菩薩等の疑意に答えられたのが如来壽品です。それは今までにない、広大にして脈々と息づく教えでありました。

お釈迦様は三誡三請(さんかいさんしょう)、重請重誡(じゅうせいじゅうかい)の後、自らが釈氏の宮を出て、道場に坐して、この四十余年にて悟りを得たと考えられていますが、そうでは無く、成仏して以来無量無辺なる時間を経ていることを訴えられ、それは想像できないくらいの歳月であって、その間、この娑婆世界にあって種々なる説法教化をして来られた、と。しかも、如来が説かれてきた教えはすべて人々に人間としての生き方を教えんがためのものであり、本仏・他仏・諸菩薩・諸天・諸人・諸現象等(趣意―六或示現)をもって説かれて来たすべての教えはすべて真実なのであります。

 それは、如来(仏)とは、一人の覚者ではなく、在世・滅度などもなく、「実に非ず、虚に非ず、如に非ず、異に非ず、三界の三界を見るが如くならず、」と言うように、すべてに遍満しているものであります。言い換えれば、仏は個ではなく、遍満し、すべてを包み込む全体―空間(仏界)と言えましょう。また、これは単なる全体ではなく、「我れもと、菩薩の道を行じて成ぜし所の寿命、今なお、いまだ尽きず」と言うように、人々に道を教えようという、お示しと働きかけをもったものであるのです。

 如来(仏)が、こうした姿であるにもかかわらず、滅度を持つのは、人間は常に人を頼り、安易な気持ちをもたないようにするためであり、滅することによって大切なものに気づかせるためだからなのです。「良医の喩え」は、このことを顕わし、死なない命(仏)を訴えているのです。そして、「自我偈」はこれらをまとめた大切なものなのです。

三つの開顕(かいけん)-真実を顕わす

昔から如来寿量品でもっとも重要な教えは「開近顕遠(かいごんけんのん)」と「開迹顕本(かいしゃくけんぽん)」と「開権顕実(かいごんけんじつ)」であるといわれています。

まず「開近顕遠」とは、「近きを開いて遠きを顕わす」ということであります。お釈迦様が人類の前に人間として姿を現して教えをお説きになった事実を近(ごん)といいます。遠いということは、お釈迦様がこの世に姿をお現しになるはるか昔ということです。近い事実はお釈迦様の出世であり、遠い因縁は無限の過去ということ。開近顕遠とはお釈迦様の出世という近い目に見える事実を通して、無限の過去にひそむ遠い因縁を明らかにすることなのです。

次の「開迹顕本」とは、「迹を開き本を顕わす」ことであり。迹(しゃく)とは形に現れた仏のことであり、釈迦仏、多宝如来、阿弥陀如来などのことであり、本(ほん)とは根本の目に見えない仏のことであります。迹とは現れたということで、本とは隠された本元のもの、ということです。「迹を開き本を顕わす」とは、現れた仏を通して、その根本である永遠の仏を知ることなのです。本当の信仰をもつためには、永遠に存在する仏というもの、絶対の仏というものがなくてはならないのです。お釈迦様という方は永遠の仏の生命を具現した方であるのだ、というように理解することによって信仰は不動のものとなるのです。

 第三の「開権顕実」というのは、「権(ごん)を開いて実(じつ)を顕わす」ことであり。権とは仮の教え、方便の教えということなのです。方便の教えを手がかりとして、真実の教えに入ることが「開権顕実」ということであるのです。「方便品」以来、今までずっと説いてきたのは方便の教えであり、今からこの「寿量品」において真実の教えに入るのだということなのです。

四誡四請(しかいししょう)

寿量品の最初に、お釈迦様は三度も「如来の誠諦(じょうたい)の語を信解すべし」つまり、これから語る仏の真実の言葉を信解しなさいと誡められています。弥勒菩薩をはじめとする菩薩たちはそれに応えて「ただ願わくは之を説きたまえ」と三度請い、さらに重ねて懇請されます。そして、最後にお釈迦様は「汝等あきらかに聴け」と重ねて誡めています。これを三誡三請(さんかいさんしょう)、重請重誡(じゅうせいじゅうかい)と呼び、合わせて四誡四請(しかいししょう)といいます。

 お釈迦様が説法されるに当たって、聴聞する弟子たちとの間で請願と誡めとが繰り返されるのは、数ある経典の中でこの法華経のみに限られているのです。わざわざ如来の真実の言葉を信解しなさいという必要がどこにあるのでしょうか?

 それは法華経以外の経々は、衆生の機根、過去世の業、性欲(しょうよく)に随順し、衆生が受け入れやすいように説かれた方便の教えであるために、信じやすく解しやすいのに対し、法華経は正直に方便を捨てて真実の無上道を説く教えであり、唯仏与仏(ゆいぶつよぶつ)の境界であるために信じ難く解し難いと言わざるを得ないのです。だからこそ、ことさらに誠諦(じょうたい)の語を信解すべしと誡めて、不動の信を持てと説かれるのです。

如来秘密(にょらいひみつ)神通之力(じんづうしりき)

お釈迦様は、多くの菩薩たちが三度お願いし、仏の教えを聞きたいという希望を認めたので「汝等(なんだち)諦(あきら)かに聴け、如来の秘密(ひみつ)神通(じんづう)の力を」とまず仰せられました。寿量品で説かれるのはまさにこの如来秘密神通之力なのです。

 如来の秘密とは如来の本質をいい、神通の力とは如来のはたらきをいいます。お釈迦様は単に八十年の生涯をこの世に現れて教えを説かれたのではないのです。この世に現れたお釈迦様は迹仏であって、ほんとうの仏は本仏でなければならないのです。その本仏のはたらきは深く広いので、神通之力と言ったのです。

 如来秘密神通之力とは、本仏のすばらしい力のことです。本仏はわれわれの目には見えない。隠されているから秘密なのであります。しかし、隠されているからわからないと思うのは誤りであり。春の朝に草木が花開き、夏には葉を茂らせ、秋には紅葉し、冬には落葉するのも本仏のはたらきに他ならないということなのです。

今月の教えは・・・

       是 好 良 薬

       今 留 在 此

       汝 可 取 服

  (この好き良薬を 今留めて此に在く)

仏様は、今の時代の私たちの為に『南無妙法蓮華経』という素晴らしい薬を残しておくからね。と仰っています。そしてそれを取って服しなさい。つまりは信仰してお唱えしなさいとお教えです。

必ず良くなる薬ですから毎朝毎晩お唱え(服用)してまいりましょう♪

     妙法蓮華経如来壽量品第十六抜粋  

爾時仏告諸菩薩。及一切大衆。諸善男子。汝等当信解。如来誠諦之語。復告大衆。汝等当信解。如来誠諦之語。又復告諸大衆。汝等当信解。如来誠諦語。

(訳)爾の時に仏、諸の菩薩及び一切の大衆に告げたまわく、 諸の善男子、汝等当に如来の誠諦の語を信解すべし。復大衆に告げたまはく、汝等当に如来の誠諦の語を信解すべし。 又復諸の大衆に告げたまはく、汝等当に如来の誠諦の語を信解すべし。

是時菩薩大衆。弥勒為首。合掌白仏言。世尊唯願説之。我等当信受仏語。

(訳)是の時に菩薩大衆、弥勒を首として、合掌して仏に白して言さく、世尊唯願わくは之を説きたまえ。我等当に仏の語を信受したてまつるべし。

如是三白已復言。唯願説之。我等当信受仏語。

(訳)是の如く三たび白し已って復言さく、唯願わくは之を説きたまえ。我等当に仏の語を信受したてまつるべし。

爾時世尊。知諸菩薩。三請不止。而告之言。汝等諦聴。如来秘密。神通之力。

(訳)爾の時に世尊、諸の菩薩の三たび請じて止まざることを知しめして、之に告げて言わく、汝等諦かに聴け、如来の秘密・神通の力を。

然我実成仏已来。久遠若斯。但以方便。教化衆生。令入仏道。作如是説。

(訳)然るに我実に成仏してより已来久遠なること斯の若し。但方便を以て衆生を教化して、仏道に入らしめんとして是の如き説を作す。

諸善男子。如来所演経典。皆為度脱衆生。或説己身。或説他身。或示己身。或示他身。或示己事。或示他事。

(訳)諸の善男子、如来の演ぶる所の経典は、皆衆生を度脱せんが為なり。或は己身を説き、或は他身を説き、或は己身を示し、或は他身を示し、或は己事を示し、或は他事を示す。

如是我成仏已来。甚大久遠。寿命無量。阿僧祇劫。常住不滅。

(訳)是の如く我成仏してより已来甚だ大に久遠なり。寿命無量阿僧祇劫常住にして滅せず。

余心失者。見其父来。雖亦歓喜問訊。求索治病。然与其薬。而不肯服。所以者何。毒気深入。失本心故。於此好色香薬。而謂不美。父作是念。此子可愍。為毒所中。心皆顛倒。雖見我喜。求索救療。如是好薬。而不肯服。

(訳)余の心を失える者は其の父の来れるを見て、亦歓喜し問訊して病を治せんことを求索むと雖も、然も其の薬を与うるに而も肯えて服せず。所以は何ん、毒気深く入って本心を失えるが故に、此の好き色・香ある薬に於て美からずと謂えり。父是の念を作さく、此の子愍むべし、毒に中られて心皆顛倒せり。我を見て喜んで救療を求索むと雖も、是の如き好き薬を而も肯て服せず。

我今当設方便。令服此薬。即作是言。汝等当知。我今衰老。死時已至。【是好良薬。今留在此。汝可取服。】勿憂不差。作是教已。復至他国。遣使還告。汝父已死。

(訳)我今当に方便を設けて此の薬を服せしむべし。 即ち是の言を作さく、汝等当に知るべし、我今衰老して死の時已に至りぬ。【是の好き良薬を今留めて此に在く。汝取って服すべし、】差えじと憂うることなかれと。是の教を作し已って復他国に至り、使を遣わして還って告ぐ、汝が父已に死しぬと。

常懐悲感。心遂醒悟。乃知此薬。色香美味。即取服之。毒病皆愈。

(訳)常に悲感を懐いて心遂に醒悟し、乃ち此の薬の色・香・味美きを知って、即ち取って之を服するに毒の病皆愈ゆ。

仏言。我亦如是。成仏已来。無量無辺。百千万億。那由他阿僧祇劫。為衆生故。

(訳)仏の言わく、我も亦是の如し。成仏してより已来、無量無

辺百千万億那由他阿僧祇劫なり。

以方便力。言当滅度。

(訳)衆生の為の故に方便力を以て当に滅度すべしと言う。

亦無有能。如法説我。虚妄過者。

(訳)亦能く法の如く我が虚妄の過を説く者あることなけん。

爾時世尊。欲重宣此義。而説偈言

(訳)爾の時に世尊、重ねて此の義を宣べんと欲して、偈を説いて言わく、

【自我偈】

自我得仏来 所経諸劫数 無量百千万 億載阿僧祇

(訳)我仏を得てより来 経たる所の諸の劫数

  無量百千万 億載阿僧祇なり

常説法教化 無数億衆生 令入於仏道 爾来無量劫

(訳)常に法を説いて 無数億の衆生を教化して

  仏道に入らしむ 爾しより来無量劫なり

為度衆生故 方便現涅槃 而実不滅度 常住此説法

我常住於此 以諸神通力 令顛倒衆生 雖近而不見

(訳)衆生を度せんが為の故に 方便して涅槃を現ず

  而も実には滅度せず 常に此に住して法を説く

  我常に此に住すれども 諸の神通力を以て

  顛倒の衆生をして 近しと雖も而も見ざらしむ

衆見我滅度 広供養舎利 咸皆懐恋慕 而生渇仰心

衆生既信伏 質直意柔軟 一心欲見仏 不自惜身命

時我及衆僧 倶出霊鷲山

 (訳)衆我が滅度を見て 広く舎利を供養し

  咸く皆恋慕を懐いて 渇仰の心を生ず

  衆生既に信伏し 質直にして意柔軟に

  一心に仏を見たてまつらんと欲して 自ら身命を惜まず

  時に我及び衆僧 倶に霊鷲山に出ず

我時語衆生 常在此不滅

以方便力故 現有滅不滅 余国有衆生 恭敬信楽者

我復於彼中 為説無上法 汝等不聞此 但謂我滅度

 (訳)我時に衆生に語る 常に此にあって滅せず

  方便力を以ての故に 滅不滅ありと現ず

  余国に衆生の 恭敬し信楽する者あれば

  我復彼の中に於て 為に無上の法を説く

  汝等此れを聞かずして 但我滅度すと謂えり

我見諸衆生 没在於苦海 故不為現身 令其生渇仰

因其心恋慕 乃出為説法

 (訳)我諸の衆生を見れば 苦海に没在せり

  故に為に身を現ぜずして 其れをして渇仰を生ぜしむ

  其の心恋慕するに因って 乃ち出でて為に法を説く

神通力如是 於阿僧祇劫

常在霊鷲山 及余諸住処 衆生見劫尽 大火所焼時

我此土安穏 天人常充満 園林諸堂閣 種種宝荘厳

宝樹多華果 衆生所遊楽 諸天撃天鼓 常作衆伎楽

雨曼陀羅華 散仏及大衆

 (訳)神通力是の如し 阿僧祇劫に於て

  常に霊鷲山 及び余の諸の住処にあり

  衆生劫尽きて 大火に焼かるると見る時も

  我が此の土は安穏にして 天人常に充満せり

  園林諸の堂閣 種々の宝をもって荘厳し

  宝樹華果多くして 衆生の遊楽する所なり

  諸天天鼓を撃って 常に衆の妓楽を作し

  曼陀羅華を雨らして 仏及び大衆に散ず

我浄土不毀 而衆見焼尽

憂怖諸苦悩 如是悉充満 是諸罪衆生 以悪業因縁

過阿僧祇劫 不聞三宝名

 (訳)我が浄土は毀れざるに 而も衆は焼け尽きて

  憂怖諸の苦悩 是の如き悉く充満せりと見る

  是の諸の罪の衆生は 悪業の因縁を以て

  阿僧祇劫を過ぐれども 三宝の名を聞かず

諸有修功徳 柔和質直者

則皆見我身 在此而説法 或時為此衆 説仏寿無量

久乃見仏者 為説仏難値 我智力如是 慧光照無量

寿命無数劫 久修業所得

 (訳)諸の有ゆる功徳を修し 柔和質直なる者は

  則ち皆我が身 此にあって法を説くと見る

  或時は此の衆の為に 仏寿無量なりと説く

  久しくあって乃し仏を見たてまつる者には 

為に仏には値い難しと説く

  我が智力是の如し 慧光照すこと無量に

  寿命無数劫 久しく業を修して得る所なり

汝等有智者 勿於此生疑

当断令永尽 仏語実不虚

 (訳)汝等智あらん者 此に於て疑を生ずることなかれ

  当に断じて永く尽きしむべし 仏語は実にして虚しからず

如医善方便

 (訳)医の善き方便をもって

為治狂子故 実在而言死

 (訳)狂子を治せんが為の故に

  実には在れども而も死すというに

無能説虚妄

 (訳)能く虚妄を説くものなきが如く

我亦為世父 救諸苦患者

 (訳)我も亦為れ世の父 諸の苦患を救う者なり

為凡夫顛倒 実在而言滅 以常見我故 而生恣心

放逸著五欲 堕於悪道中 我常知衆生 行道不行道

随応所可度 為説種種法

 (訳)凡夫の顛倒せるを為て 実には在れども而も滅すと言う

  常に我を見るを以ての故に 而も・恣の心を生じ

  放逸にして五欲に著し 悪道の中に堕ちなん

  我常に衆生の 道を行じ道を行ぜざるを知って

  度すべき所に随って 為に種々の法を説く

毎自作是念 以何令衆生

得入無上道 速成就仏身

 (訳)毎に自ら是の念を作す 何を以てか衆生をして

  無上道に入り 速かに仏身を成就することを得せしめんと

本日も長文をお読みいただきありがとうございました。

感謝 合掌🙏

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