2022年6月1日FB投稿記事より

 

皆様 おはようございます!

今年も六月に入りましてね!六月は水無月(みなづき)ともよばれ、言葉の由来には諸説ありますが、水無月の「無」は「の」を意味する連体助詞「な」であり「水の月」であるとする説が有力です。私事ですがこの月になると季節の和菓子「水無月」が大好きで食する事が多いようです。😘

それでは今月の一句

「紫陽花に 瞳ばかりの 記憶あり」 長谷川かな女 作

【補足】紫陽花の花の色はよく変わることから、「七変化」「八仙花」という別名も持っています。

さて今月の「御朱印・法華経二十八品の心」は法華経「従地湧出品第十五」をご紹介致します。

法華経二十八品の前半十四品が終わり、いよいよここから法華経も後半に入ります。法華経を理解する教義の上では、前半は迹門(しゃくもん)、後半を本門(ほんもん)と呼ばれ、「迹」とは垂迹(すいじゃく)するという意味で、本地(ほんじ)の仏が衆生教化のために身を現ずることをいいます。つまり、前半十四品を迹仏(しゃくぶつ)としてのお釈迦さま、後半を本仏(ほんぶつ)としてのお釈迦さまが説かれていると解釈することができます。従地涌出品において大地から無数の高貴な菩薩たちの出現により、次の如来寿量品においてお釈迦さまの本地が明かされることになるのです。🙏

従地涌出品の大意

見宝塔品第十一にて、如来の滅後において法華経を弘める者を求めたのに対し、会衆(えしゅう)*①はそれを懇願しましたが、お釈迦様は弘める者より、付属*②への心構えを前の三品(提婆品・勧持品・安楽行品)で示しこられました。ここでは、それを受けて弘める者に目が向けられ、妙法付属への懇願は他方の国土の菩薩たちにまで及ぶ中、お釈迦様は、妙法付属に値(あたい)する六萬恒河沙*③等(ろくまんごうがしゃとう)の菩薩を示される。すると、娑婆世界(しゃばせかい)の地が裂け、六萬恒河沙等の菩薩が各々六萬恒河沙等の菩薩を従えて涌き出て、空中に上り、釈尊・多宝如来を礼拝しました。

その時、上首(じょうしゅ)*④たる上行(じょうぎょう)・無辺行(むへんぎょう)・浄行(じょうぎょう)・安立行(あんりゅうぎょう)の四菩薩は、お釈迦様が長い間の教化によって疲労はないかと申しされました。お釈迦様は、これに対し、そうした疲労は無い。なぜかと言えば、これらの人々は過去に我が化を受け、諸仏において善根を種(う)えたものであり、信受(しんじゅ)し、如来の慧(智慧)にすぐに連なってくれるからである、と答えられました。

これを聞いた弥勒菩薩(みろくぼさつ)は多くの菩薩たちと共に疑いを起しました。今までに見たことも聞いたこともない地涌(じゆ)の無数の菩薩はどういう菩薩なのでしょうか、と。この時、お釈迦様はこの娑婆世界で成道(じょうどう・菩薩が修行のすえ、悟りを開き仏になる事。)以来の初発心(しょほっしん)の弟子なることを明かさらました。これを聞いた弥勒菩薩は益々心に疑惑を生じ、釈尊は、成道以来、四十余年しかたっていないのに、どうしてこれだけ無数の弟子を教化できたのであろうかと、迷いに近い疑いへと心を動かしたのです。そして、ぜひこの疑いを除きたまえと、ひたすら懇願するのでありました。

かくして、この疑いと共に、次の如来寿量品(にょらいじゅりょうほん)の広大なる姿のベールが取られようとするのです。

*①会衆(えしゅう)とは会合に寄り集まった人々の事を指す仏教用語です。

*②付属(ふぞく)とは仏が弟子に仏法の奥義を伝授し、布教の使命を託すことです。

*③六萬恒河沙(ろくまんごうがしゃ)とは恒河(ガンジス河)の砂のように、無数に数が多い事を指します。

*④上首(じょうしゅ)とは一座の衆僧中の指導的中心人物を言い、集団の長を指します。

止(や)みね、善男子・・・

先の見宝塔品において、お釈迦様がわが滅度の後に法華経を弘める者はいないだろうかと呼びかけたことに応えて、八恒河沙(ガンジス河の砂の数の八倍)を超す、他方から来た多くの菩薩たちが、お釈迦さま滅後の娑婆世界において、人々のために説くことを申し出るのです。

ところがお釈迦様は「止みね、善男子。お前たちがこの法華経を護持することはない」と退けてしまわれます。なぜなら、娑婆世界には大地の下方の空中にもともと六萬恒河沙にも及ぶ菩薩たちがいます。その六万のガンジス河の砂の数にも及ぶ菩薩のおのおのには、同じ数ほどの眷属たちがいて、これらの者たちこそが、この娑婆世界において法華経を弘める者たちなのであるといわれたのです。その言葉が終わるやいなや、この娑婆世界の三千大千世界の国土が皆振動して、大地が裂け、その中から無量千万憶の菩薩が同時に涌出したのです。

地涌の菩薩・・・

この大地から涌出した地涌の菩薩は、我々の住む娑婆世界の菩薩であります。これに対し、八恒河沙に過ぎたる菩薩というのは、他方の菩薩であって、もともと娑婆世界以外の様々な世界で活躍すべき菩薩なのです。

 地涌の菩薩は、その身が金色に輝いていたばかりか、仏様の三十二相をそなえ、無量の光明を放っていました。この菩薩たちは地下の虚空界(こくうかい・天地の間に広がる大空)に住んでいた人たちで、お釈迦さまが呼びかける声を聞いて、地下から現れてきたのであります。

 この地涌の菩薩たちの中に四人の導師がいました。それは上行、無辺行、浄行、安立行の四菩薩です。四人の菩薩の名前は、この世のすべてを構成する「地・水・火・風」の四大をあらわし、上行は火に、無辺行は風に、浄行は水に、安立行は地に、それぞれなぞらえ四人の菩薩の働きは、この世を構成する四大の働きそのものを象徴しています。それゆえ、これら四人の菩薩は地涌の菩薩たちの唱導師とされるのであります。

如蓮華在水(にょれんげざいすい)・・・

この娑婆世界という現実世界は、穢れたところであり、人間のはてしない欲望が渦巻いた住みにくい世界であると長い間にわたって考えられていました。その娑婆世界の地の底から、金色に輝いた光徳の菩薩たちが無数に涌出してきたのです。経文には「善く菩薩の道を学して、世間の法に染まらざること、蓮華の水に在るが如し。地より涌出し、みな恭敬の心を起して、世尊のみまえに住せり」とあります。弥勒菩薩をはじめ八千恒河沙の菩薩たちはいちように、これはどういう事なのであろうかと疑念を抱き、弥勒菩薩が代表してお釈迦様に問いかけたのです。

 「世尊は皇太子の位を捨てて出家し、ブッダガヤの菩提樹の下でお悟りをひらかれてから、まだわずか四十余年しかすぎておりません。にもかかわらず、このわずかな短い期間に、無限ともいうべき多くの数の、これら大地より涌出した菩薩たちを教化するようなことができたのでしょうか。とても信じ難いことです。それはたとえば、色美しい黒い髪の二十五歳の青年が、百歳の老人を指して、これは私の息子であると言い、百歳の老人もその青年を指して、これは私の父である、私を養育してくれたものであるというようなものです。いったいこれはどういうことなのでしょうか」

この弥勒菩薩の問いかけをもって、この従地涌出品は幕を下し、この問いかけに対する答えは、つぎの如来寿量品において久遠実成の本仏(久遠の昔に成仏して以来、この娑婆世界において常に法を説き、衆生を教化している久遠のいのちをもった仏さま)というものを、お釈迦さまご自身が解き明かされるのです。

今月の教えは・・・

       不 染 世 間 法

       如 蓮 華 在 水

(世間の法に 染まらざること 蓮華の水に 在るがごとし)

蓮華は泥を栄養としてキレイな清浄な花を咲かせます。私たちも世間の汚れに染まることなくキレイな心を持って参りたいですね。

この世に起こるすべての事は、決して無駄ではないよと仏様はお教えです。苦しみや

悲しみ、自分の欲望さえも、やがて成仏の糧となるのですから。

     妙法蓮華経従地湧出品第十五抜粋

爾時他方国土。諸来菩薩摩訶薩。過八恒河沙数。於大衆中。起立合掌作礼。而白仏言。世尊。若聴我等。於仏滅後。在此娑婆世界。勤加精進。護持読誦。書写供養。是経典者。当於此土。而広説之。

(訳)爾の時に他方の国土の諸の来れる菩薩摩訶薩の八恒河沙の数に過ぎたる、大衆の中に於て起立し合掌し礼を作して、仏に白して言さく、世尊、若し我等仏の滅後に於て此の娑婆世界に在って、勤加精進して是の経典を護持し読誦し書写し供養せんことを聴したまわば、当に此の土に於て広く之を説きたてまつるべし。

爾時仏告。諸菩薩摩訶薩。止善男子。不須汝等。護持此経。所以者何。我娑婆世界。自有六万。恒河沙等。菩薩摩訶薩。一一菩薩。各有六万。恒河沙眷属。是諸人等。能於我滅後。護持読誦。広説此経。

(訳)爾の時に仏、諸の菩薩摩訶薩衆に告げたまわく、止みね、善男子、汝等が此の経を護持せんことを須いじ。所以は何ん、我が娑婆世界に自ら六万恒河沙等の菩薩摩訶薩あり。一一の菩薩に各六万恒河沙の眷属あり。是の諸人等能く我が滅後に於て、護持し読誦し広く此の経を説かん。

是諸菩薩。従地出已。各詣虚空。七宝妙塔。多宝如来。釈迦牟尼仏所。到已向二世尊。頭面礼足。乃至諸宝樹下。師子座上仏所。亦皆作礼。右繞三。合掌恭敬。以諸菩薩。種種讃法。而以讃歎。住在一面。欣楽瞻仰。於二世尊。是諸菩薩摩訶薩。従地涌出。以諸菩薩。種種讃法。而讃於仏。如是時間。経五十小劫。是時釈迦牟尼仏。黙然而坐。及諸四衆。亦皆黙然。五十小劫。仏神力故。令諸大衆。謂如半日。爾時四衆。亦以仏神力故。見諸菩薩。満無量。百千万億。国土虚空。

(訳)是の諸の菩薩地より出で已って、各虚空の七宝妙塔の多宝如来・釈迦牟尼仏の所に詣づ。到り已って二世尊に向いたてまつりて頭面に足を礼し、乃至諸の宝樹下の師子座上の仏の所にても亦皆礼を作して、右に繞ること三・して合掌恭敬し、諸の菩薩の種々の讃法を以て、以て讃歎したてまつり、一面に住在し欣楽して二世尊を瞻仰す。是の諸の菩薩摩訶薩地より涌出して、諸の菩薩の種々の讃法を以て仏を讃めたてまつる。是の如くする時の間に五十小劫を経たり。是の時に釈迦牟尼仏黙然として坐したまえり。及び諸の四衆も亦皆黙然たること五十小劫、仏の神力の故に諸の大衆をして半日の如しと謂わしむ。爾の時に四衆、亦仏の神力を以ての故に、諸の菩薩の無量百千万億の国土の虚空に遍満せるを見る。

爾時四大菩薩。而説偈言

世尊安楽 少病少悩 教化衆生 得無疲倦

又諸衆生 受化易不 不令世尊 生疲労耶

(訳)爾の時に四大菩薩、而も偈を説いて言さく、

 世尊は安楽にして 少病少悩にいますや

 衆生を教化したもうに 疲倦無きことを得たまえりや

 又諸の衆生 化を受くること易しや不や

 世尊をして 疲労をなさしめざる耶

諸衆生等。易可化度。無有疲労。所以者何。是諸衆生。世世已来。常受我化。亦於過去諸仏。供養尊重。種諸善根。此諸衆生。始見我身。聞我所説。

即皆信受。入如来慧。除先修習。学小乗者。如是之人。我今亦令。得聞是経。入於仏慧。

(訳)諸の衆生等は化度すべきこと易し。疲労あることなし。所以は何ん、是の諸の衆生は世世より已来常に我が化を受けたり。亦過去の諸仏に於て供養・尊重して諸の善根を種えたり。此の諸の衆生は始め我が身を見我が所説を聞き、即ち皆信受して如来の慧に入りき。先より修習して小乗を学せる者をば除く。是の如き人も、我今亦是の経を聞いて仏慧に入ることを得せしむ。

爾時弥勒菩薩。及八千恒河沙。諸菩薩衆。皆作是念。我等従昔已来。不見不聞。如是大菩薩摩訶薩衆。従地涌出。住世尊前。合掌供養。問訊如来。時弥勒菩薩摩訶薩。知八千恒河沙。諸菩薩等。心之所念。竝欲自決所疑。合掌向仏。以偈問曰

(訳)爾の時に弥勒菩薩及び八千恒河沙の諸の菩薩衆、皆是の念を作さく、我等昔より已来、是の如き大菩薩摩訶薩衆の地より涌出して世尊の前に住して、合掌し供養して如来を問訊したてまつるを見ず聞かず。時に弥勒菩薩摩訶薩、八千恒河沙の諸の菩薩等の心の所念を知り、竝に自ら所疑を決せんと欲して、合掌し仏に向いたてまつりて、偈を以て問うて曰さく、

 一一諸菩薩 所将諸眷属 其数無有量 如恒河沙等

 或有大菩薩 将六万恒沙 如是諸大衆 一心求仏道

 是諸大師等 六万恒河沙 倶来仏供養 及護持是経

 将五万恒沙 其数過於是 四万及三万 二万至一万

 一千一百等 乃至一恒沙 半及三四分 億万分之一

 千万那由他 万億諸弟子 乃至於半億 其数過復上

 百万至一万 一千及一百 五十与一十 乃至三二一

 単已無眷属 楽於独処者 倶来至仏所 其数転過上

 如是諸大衆 若人行籌数 過於恒沙劫 猶不能尽知

(訳)一一の諸の菩薩 所将の諸の眷属

 其の数量有ること無く 恒河沙等の如し

 或は大菩薩の 六万恒沙を将いたるあり

 是の如き諸の大衆 一心に仏道を求む

 是の諸の大師等 六万恒河沙あり

 倶に来って仏を供養し 及び是の経を護持す

 五万恒沙を将いたる 其の数是れに過ぎたり

 四万及び三万 二万より一万に至る

 一千一百等 乃至一恒沙

 半及び三四分 億万分の一

 千万那由他 万億の諸の弟子

 乃ち半億に至る 其の数復上に過ぎたり

 百万より一万に至り 一千及び一百

 五十と一十と 乃至三二一

 単已にして眷属なく 独処を楽う者

 倶に仏所に来至せる 其の数転た上に過ぎたり

 是の如き諸の大衆 若し人籌を行いて数うること

 恒沙劫を過ぐとも 猶お尽くして知ること能わじ

爾時釈迦牟尼仏。分身諸仏。従無量千万億。他方国土来者。在於八方。諸宝樹下。師子座上。結跏趺坐。其仏侍者。各各見是。菩薩大衆。三千大千世界四方。

従地涌出。住於虚空。各白其仏言。世尊。此諸無量無辺阿僧祇。菩薩大衆。従何所来。

(訳)爾の時に釈迦牟尼仏の分身の諸仏無量千万億の他方の国土より来りたまえる者、八方の諸の宝樹下の師子座上に在して結跏趺坐したまえり。其の仏の侍者、各各に是の菩薩大衆の三千大千世界の四方に於て、地より涌出して虚空に住せるを見て、各其の仏に白して言さく、世尊、此の諸の無量無辺阿僧祇の菩薩大衆は何れの所より来れる。

汝今出信力 住於忍善中 昔所未聞法 今皆当得聞

我今安慰汝 勿得懐疑懼 仏無不実語 智慧不可量

所得第一法 甚深分別 如是今当説 汝等一心聴

(訳)汝今信力を出して 忍善の中に住せよ

 昔より未だ聞かざる所の法 今皆当に聞くことを得べし

 我今汝を安慰す 疑懼を懐くことを得ることなかれ

 仏は不実の語なし 智慧量るべからず

 得る所の第一の法は 甚深にして分別し・し

 是の如きを今当に説くべし 汝等一心に聴け

我今於此大衆。宣告汝等。阿逸多。是諸大菩薩摩訶薩。無量無数阿僧祇。従地涌出。汝等昔所未見者。我於是娑婆世界。得阿耨多羅三藐三菩提已。教化示導。是諸菩薩。調伏其心。令発道意。

(訳)我今此の大衆に於て汝等に宣告す。阿逸多、是の諸の大菩薩摩訶薩の無量無数阿僧祇にして地より涌出せる、汝等昔より未だ見ざる所の者は、我是の娑婆世界に於て阿耨多羅三藐三菩提を得已って、是の諸の菩薩を教化示導し、其の心を調伏して道の意を発さしめたり。

阿逸汝当知 是諸大菩薩 従無数劫来 修習仏智慧

悉是我所化 令発大道心 此等是我子 依止是世界

常行頭陀事 志楽於静処 捨大衆閙 不楽多所説

如是諸子等 学習我道法 昼夜常精進 為求仏道故

(訳)阿逸汝当に知るべし 是の諸の大菩薩は

 無数劫より来 仏の智慧を修習せり

 悉く是れ我が所化として 大道心を発さしめたり

 此れ等は是れ我が子なり 是の世界に依止せり

 常に頭陀の事を行じて 静かなる処を志楽し

 大衆の・閙を捨てて 所説多きことを楽わず

 是の如き諸子等は 我が道法を学習して

 昼夜に常に精進す 仏道を求むるをもっての故に

在娑婆世界 下法空中住 志念力堅固 常勤求智慧

説種種妙法 其心無畏所

(訳)娑婆世界の 下法の空中に在って住す

 志念力堅固にして 常に智慧を勤求し

 種々の妙法を説いて 其の心畏るる所なし

我於伽耶城 菩提樹下坐

得最成正覚 転無上法輪 爾乃教化之 令初発道心

今皆住不退 悉当得成仏 我今説実語 汝等一心信

(訳)我伽耶城 菩提樹下に於て坐して

 最正覚を成ずることを得て 無上の法輪を転じ

 爾して乃ち之を教化して 初めて道心を発さしむ

 今皆不退に住せり 悉く当に成仏を得べし

 我今実語を説く 汝等一心に信ぜよ

而此大衆。諸菩薩等。已於無量。千万億劫。為仏道故。勤行精進。善入出住。無量百千万億三昧。得大神通。久修梵行。善能次第。習諸善法。巧於問答。人中之宝。一切世間。甚為希有。

(訳)而るに此の大衆の諸の菩薩等は已に無量千万億劫に於て、仏道の為の故に勤行精進し、善く無量百千万億の三昧に入・出・住し大神通を得、久しく梵行を修し、善能次第に諸の善法を習い、問答巧みに、人中の宝として、一切世間に甚だ為れ希有なり。

此諸仏子等 其数不可量 久已行仏道 住神通智力

善学菩薩道 

【不染世間法 如蓮華在水】

従地而涌出 皆起恭敬心 住於世尊前 是事難思議

(訳)此の諸の仏子等は 其の数量るべからず

 久しく已に仏道を行じて 神通智力に住せり

 善く菩薩の道を学して 

【世間の法に染まざること 蓮華の水に在るが如し】 

 地よりして涌出し 皆恭敬の心を起して 

 世尊の前に住せり 是の事思議し難し 

譬如少壮人 年始二十五 示人百歳子 髪白而面皺

是等我所生 子亦説是父 父少而子老 挙世不信所

(訳)譬えば少壮の人 年始めて二十五なる

 人に百歳の子の 髪白くして面皺めるを示して

 是れ等我が所生なりといい 子も亦是れ父なりと説かん

 父は少くして子は老いたる 

 世を挙って信ぜざる所ならんが如く

世尊亦如是 得道来甚近

(訳)世尊も亦是の如し 得道より来甚だ近し

是諸菩薩等 志固無怯弱

従無量劫来 而行菩薩道 巧於難問答 其心無畏所

忍辱心決定 端正有威徳 十方仏所讃 善能分別説

不楽在人衆 常好在禅定 為求仏道故 於下空中住

(訳)是の諸の菩薩等は 志固くして怯弱なし

 無量劫より来 而も菩薩の道を行ぜり

 難問答に巧みにして 其の心畏るる所なく

 忍辱の心決定し 端正にして威徳あり

 十方の仏の讃めたもう所なり 善能分別し説く

 人衆に在ることを楽わず 常に好んで禅定に在り

 仏道を求むるをもっての故に 下の空中に於て住せり

我等従仏聞 於此事無疑 願仏為未来 演説令開解

若有於此経 生疑不信者 即当堕悪道 願今為解説

是無量菩薩 云何於少時 教化令発心 而住不退地

(訳)我等は仏に従って聞きたてまつれば 此の事に於て疑なし

 願わくは仏未来の為に 演説して開解せしめたまえ

 若し此の経に於て 疑を生じて信ぜざることあらん者は

 即ち当に悪道に堕つべし 願わくは今為に解説したまえ

 是の無量の菩薩をば 云何してか少時に於て

 教化し発心せしめて 不退の地に住せしめたまえる

本日も長文を最後までお読頂きありがとうございます。

感謝 合掌🙏南無妙法蓮華経

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