2021年3月28日FB投稿記事より
今日は朝から雨模様ですね。桜花もこの雨で散ってしまいますかね?
コロナ禍の中、少しでも皆様の気分を慰めてもらえるのは春の花たちでしょうね!
本日は身延山法華経二十八品経石めぐりの番外編其の一として「身延山・七面山を歩き終えて」妙法蓮華経 信解品第四から
「無量の珍寳(ちんぽう)求めざるに自から得たり」
意味として・・・
無量の珍しい宝を、求めたのではないのに自から得ることができた。
筆者様は法華経二十八品の経石を巡りながら法華経を学ぶと共に、この「歩かにゃわからぬ祈りの霊場」を書き終えた時、ご自分がどう変わっているのかを見てみたいとの思いを抱きながら、身延山・七面山を歩かれました。総門から歩き始めた道のり・・・。
自分の力で歩かねばならず、立ち寄る場所には、諸天善神様を守っている方々がおられ、筆者様を暖かく迎えてくれます。
歩く途中では、見知らぬ方々と笑顔で「お疲れ様です。頑張って下さい。」等と、お互いに励ましあったり、一人で歩いていると思っていたけれども、決してその様なことはなかったようです。
お天道様が体を温め、雨は大地を潤し、あらゆるモノを育んでくれる。水は、乾いた喉を潤し、木々は日差しを遮り、小鳥のさえずりは心を癒してくれる。自然界の今見えている景色の全てが、我々には必要不可欠であり、周りにいる人たちも自分を助けてくれる。日常生活の中で、当たり前にある物でも、我々にとって一っ一っが不可欠な物で、それらが全てあって、今日の我々は生かされていて、人間自分一人じゃ生きてられない事を強く思われました。
法華経の教えを刻んだ経石を巡り、それを学び、生活の中で悩み事に直面した折、その教えに救われるのです。
表面上でなく、自分の心を見つめる時間でもあり、自分の心の弱さに気付き、自分の邪な心に気付き、苦悩・苦しみの中で必ず助けてくれる人たちがいて、”生かされている”という実感があり、苦しい山道でも登り続ければ、やがて頂上にたどり着ける。苦しいのは、山を一歩一歩登っいる証拠であり、又、確実に頂上に近ずいている事でもあります。
人生でも苦しい事は沢山ありますが、自分の成長の為には必要な苦しみ(試練)だと気付いた時、筆者様はは山登りに自分の人生を見られた思いだったようです。以前なら、山登りの先に下っている人を見ると、羨ましく思われていたのですが、先を行く人、山を下る人も、今の自分と同じ苦労をされてここまで来たのだと考えられると、自分も頑張ろうと思えるようになられ、自分の心が変れば、自分の行動が変わり、相手も変わります。
”相手の事を責める前に、自分の心はどうなんだろう”と、自分の心を直ぐに見直そうとする自分がおられました。
相手の心を考えないで出す言葉と、相手の心を思いやって出る言葉は、全く違うものです。自分の考えに執着がなくなると、なんと心が軽くなり、家庭・学校・社会・会社等、私達は様々な形で人と関わっていますが、自分の考え方と違う人、意見の違う人とぶつかり、人間関係で苦しみます。しかし、自らの考え方に執着(囚われの心)が無くなれば、自分の心がとても軽くなり、前に進む事が出来るのです。
この原稿を書いている時に筆者様の元へ「みのぶ誌」が届き、そこには、法主様の「不求自得」の色紙が掲載されておいました。
身延山久遠寺の境内には「信解品第四」の経石があり、そこには「仏様の教えを学び修行したために多くの事を得た。そして教えを信じ、歓喜し、求めなくても宝を得ることが出来た。」とあり、まさにその通リであり、法華経二十八品を巡る中、いつしか考え方、モノの見方が変り、角の尖がった自分の心が丸く削られ、家族の和の生まれ、再び介護の職場での仕事を頂き、無事に原稿も書き終え歓喜させて頂き、心の幸せというべき”宝”を得ることが出来、法華経二十八品巡りを無事終えた自分の思いが、法主様の「不求自得」とも重なり、安堵の思いと、この上にない感動を同時に得られる事が筆者様が出来たとの事です。
(参考資料)
妙法蓮華経信解品第四より
我等今於仏前。聞授声聞。阿耨多羅三藐三菩提記。心甚歓喜。得未曾有。不謂於今。忽然得聞。希有之法。深自慶幸。獲大善利。無量珍宝。「不求自得。」
「不求自得」求めざるに自ら得たり。
本日も最後までお読みいただきありがとうございます。
感謝 合掌南無妙法蓮華経