2020年10月1日投稿記事より

 

皆様こんにちはです!

今日から10月になりましたね、10月は別名「神無月(かんなづき/かみなしづき)」と呼ばれています。

神無月は一般的に出雲大社に各地の神様が出向くので神様が不在の月と言われていますが、これもひとつの解釈の様です。

ここで今月の俳句を一句

秋晴の 境内の音は 微塵かな 野村喜舟(のむら きしゅう)作

本日の「歩かにゃわからぬ祈りの霊場」(身延山法華経二十八品経石めぐり)第二十三回は 七面山参道の安住坊(栃之木坊)にあります「薬王菩薩本事品第二十三」をご紹介致します。

経石に刻まれている言葉は・・・

「若し人病あらんにこの経を聞く事を得ば 病即ち消滅して不老不死ならん」🙏   

意味として

もし心の病にある人が、良薬と言われる法華経を聞くと、心の病は治り老死の苦から離れることができる。🙏

奥之院から本堂の右手より北参道を下り始めると、昔、七面山が修験道のお山であったといわれる険しい道は、途中雨畑へ行く道と分かれます。今は通行できることが出来ませんが、昔は雨畑集落の方々が、池大神様を七面山にお祀りしたので、その時に利用された道だといわれています。池大神様は神秘的なお姿をされ、一説には役行者とも伝えられており、七面山の開創前より勧進されていたとも伝えられています。

北参道三十丁目には明浄坊、更に下ると十九丁目に大きな栃の木が聳えて立つ安住坊があります。この栃の木は日朗上人のお手植えとも云われる天然記念物に指定されています。この大木の左側に「薬王菩薩本事品第二十三」の経石があります。

「若し人病あらんにこの経を聞く事を得ば 病即ち消滅して不老不死ならん」と書かれていますが、どの様な意味でしょうか?

経石の反対側には「此の経は即ちこれ閻浮提の人の病の良薬なり」と書かれていて、この文言が先にあって一つの経文になっています。

お釈迦様はお弟子様に「このお経は全世界の人々の病にとっての良薬だから、もし人が病んでいても、この経を聞く事が出来たならば、その病はたちまちにして消え、不老不死となるであろう」と説かれました。不老不死と言えば、生きている私達にとっては、憧れの様な言葉ですが、今生に生まれたら色々な事に悩み苦しみ、病に苦しみ、老いに苦しみ、必ず「死」が訪れるのは当たり前のことです。ここでお釈迦様が仰る不死とは臨終ではないのです。仏様と自分の心が一体となり、仏様の心になる事を不老不死とされています。

仏様と心が一体になるなんて、難しい事だと感じますが、常に「お釈迦様ならこんな時どう考えるのだろうか?」と思う事で正しい考え方が出来るようになるのだと思うのです。

例えば、私達は日常生活していく中で、食欲の心に悩まされたり、奢り高ぶり、嫉妬など、いわゆる煩悩というものにいつの間にか心を支配されてしまいます。幸せを求めて、あれも欲しい、これも欲しいと色々な物を欲するのですが、それがかえって私達を苦しめる煩悩となり、心の病に罹ってしまうのです。しかし法華経を学び修行し、この良薬(教え)を飲む事により、煩悩から離れて仏様と一体となり、幸せになれると説かれているのです。

とは言え、煩悩から離れ生死の束縛から解放されるという事はどうゆうことなのでしょうか?

筆者様は、以前自分の不注意で朝五時半真っ暗の中でご自宅の階段の一番上から落ちられ、左手首、腰推骨折で入院され、ベッドから一歩も動けず、三十度までしか上半身を上げられず、食事は毎回おにぎりと串サシの副食で二週間過ごされ、その時、歩けなくなったりしなか?等色々な事を考えられたようです。

ご自身が普段介護の仕事をされているので、その折は自分も介護施設の利用者さんと同様に、人の手助けを必要とす毎日で、ベッドで寝た切りの生活をされている方々は、窓の外の景色を見られてどの様に思われるのだろうか?介護する自分達に対し満足してくださっているのだろうか?自分が同様の立場になって、自分の今までの仕事はどうだったのか?なって考えられたそうです。

ご自身が歩けなくなり、初めて病室のトイレに行く事が出来ずにとても遠い感じがし、歩けるだけでも有難い、普通に座れる事、食事をしたり、お風呂に入ったり、家族と会話したり、仕事をしたりと普通の生活が出来る事が尊く幸せな事であると心から感じられ、涙ぐんでしまわれたそうです。

入院45日の事、リハビリをされていると知人の方がお見舞いにみえられ、筆者様に「お題目を信仰しているのに、なんでこんな事になったのかねぇ」と言われ、その方が帰られて、信仰していても人間だから病気にも、怪我もすると思い。リハビリの平行棒をしながら。お釈迦様ならどう思われるかと考えられ、普通なら階段の一番上から落ちたのだから、命を失ったり、半身不随になったかもしれないのに、大難を小難にして下さったし、命と今後の生活を守って下さったのだと思われました。

法華経を学び考えさせて頂いたからこそこの様に思わて、お見舞いに来て下さった方の言葉を、前向きに受け止められた事に深く感謝されています。🙏

(みのぶ誌2016年2月号より引用致しました。)

本日も最後までお読みいただきありがとうございます。

感謝です。🙏