葉月に入り、毎日酷暑が続いておりますが、皆様方には体調の異変などはございませんでしょうか?熱中症になられた方が全国的に多いとの事、十二分にお気をつけくださいませ。

八月の俳句を一句
八月の気温上騰すわが無為に  日野草城作

本日は「歩かにゃわからぬ祈りの霊場」(身延山法華経二十八品経石めぐり)第九回 身延山の三光堂にあります「授学無学人記品第九」をご紹介致します。

経石に刻まれている言葉は・・・
「心に歓喜充満せること甘露(かんろ)をもって潅(そそぐ)がるるが如し」 🙏 
要約・・・全ての弟子が授記され歓喜した。「授記され、心に喜びがあふれ甘露がそそがれているようだ」

甘露とは主に以下の意味です。
・天から与えられる甘い不老不死の霊薬。
・インドで天の神々が不死を得るための飲料をいう。
・おいしいことやそのさまを表わす言葉。

丈六堂を後に坂道を登ると六月初旬には「シャガ」の花が道の両側に絨毯の様に咲き競います。その途中「十九丁」の石碑には「身の財より心の財第一なり」と書かれています。日蓮聖人は「身延山御書」の中に「楽しくて若干の布施すとも、信心よわくば佛に成らん事叶い難し、縦え貧なりとも信心強うして志深からんは、佛に成らん事疑いある可からず」と説かれています。
それから十五分程歩くと「大光坊」にと、境内の右側には大国堂があり、日蓮聖人お手彫りの「大黒天」が安置されています。正面には甲府宰相綱重の寄進による三光天子(日・月・明星天子)像が安置されています。左側には霊鷲山にて、百日修行の「銅像釈迦如来坐像」が像が私達を迎えて下さいます。
そして相輪塔の右側に「授学無学人記品第九」の経石があります。
「心に歓喜充満せること甘露をもって潅がるるが如し」とはどの様な意味なのでしょうか?
法華経大講座では「お釈迦様が”お前は仏に成れるぞ”というお約束をなさる時に、今の信仰状態を変えず、更にこれから努力を重ねて行くならば、仏に成れるぞと言われているのです。その時の心の歓喜というものは心一杯に悦びが満ちて、甘露を注がれて潤いを受けたのと同じようです。何とも言えない様な悦びを今感じています。とお弟子の方々がお礼を申し上げているのです。私達が仏教を学んで、いくらか仏教の事が解かって来たならば、自分の境遇、事情により、適切な方法で仏道を弘げるべきです。それが店で商売しながらでも、農作業をしながらでも、道端で腰を下ろしていても、病の床にあっても、普段の生活の中で、その方法・手段はその場、その時に応じ、その人に応じて違っても良いのであり、この姿勢を変えず努力していくなら、”仏に成れる”のである」と書かれています。🙏

筆者様は「初めての法華経」のCDの中でお釈迦様とラゴラ尊者のエピソードがあり、それに深く感動されたそうです。

お釈迦様は出家前に、ラゴラという一人の子供を授かりました。そしてラゴラの将来を思いご自分の弟子にしました。ある日の事、お釈迦様とお弟子の方々は王舎城に戻り、お釈迦様はご自分の部屋で休みますが、ラゴラの部屋は多勢の弟子と共に休んでいましたが、自分は廊下に押し出されてしまいました。目の前には父(お釈迦様)の部屋があり、戸を開ければ入れるのに、自らは廊下の戸、壁に背をあて膝を抱えて一夜を過ごしました。これは経典にある伝えの一つですが、ご親交のあるお上人様よりこの後で「私はだからといってお釈迦様がいびきをかいて寝ていたとは思えません。父親として息子ラゴラの事を思い、もしかしたら一枚の壁を隔ててラゴラと背中を合わせる様に、一夜を膝を抱えて過ごされたかもしれないと思うのです。」とお話しされました。
この話を聞き、胸が熱く、涙が流されたそうです。そして遠い存在であったお釈迦様が、この話を聞かれ親近感が湧き、我々と同じ心を持った人間だと思えたそうです。
又、筆者様もご自分の今までの人生が走馬灯のように思い浮かんだそうです。お釈迦様とラゴラ尊者の間には確かに父子の絆があり、だからこそ「私も仏になれたのだから、すべての人が
しっかりとした信仰を持ち続ければ仏になれる」と、お釈迦様はお説きになっただとおもわれたのです。

授学無学の”学”とは、まだ学ぶべきことのある者、”無学””とは、もう学ぶべきことがない者という意味だそうです。
という事は、私を含め誰しもが”学”の者であり、まだ知らない事、学ぶべき事が沢山あると考えれば、長い人生においては幸せなことである様に感じられます。🙏
(みのぶ誌2014年12月号より引用致しました。)

本日も最後までお読みいただきありがとうござい。
感謝 合掌🙏