この三連休は秋晴れの行楽に最適な天候に恵まれましたね!
皆様も秋の行楽にお出かけされたのではないでしょうか?
私は京都本山本法寺様にての第65回京都日蓮宗公開に参加して参りました。
本法寺様にお参りする前に近くの本山妙覚寺様にまずお参りさせて頂きました。現在開催されている妙顕寺様を含めた3本山ライトアップ(12月3日迄17時よりライトアップ拝観料500円)宝物展示やお庭の拝観等が出来ます。是非この機会に京都の秋の夜長をお楽しみくださればいい思い出になりますよ!

今回の講座は先ず京都北区常徳寺(常盤御前や義経ゆかりのお寺様)の鶏内(かいち)住職様より干し柿を題材にされたミニ法話(いのちに合掌)を拝聴致しま(画像レジメを参照の事)煩悩を悟りにかえることが(理解し、知り、気ずく)大切である。
煩悩即菩提(煩悩にとらわれている姿も、その本体は真実不変の真如 (しんにょ) すなわち菩提(悟り)であって、煩悩と菩提は別のものではないということ。)

法話のメインとして一龍齋貞鏡師氏による講談を拝聴致しました。何時もながら素晴らしい講釈を楽しまさせていただきました。感謝です。(今年に二度目の講演でした。)

1.西行法師を題材の「西行鼓ヶ滝」(ウイキペディア参照)
「伝え聞く鼓ヶ滝に来て見れば沢辺に咲きしたんぽぽの花」と歌を詠んで悦に入っているうちにあたりが暗くなってしまい、あわてて近くの民家に宿を借りる。

そこに住んでいた翁、婆、娘の3人に、自作の歌を「音に聞く鼓ヶ滝をうち見れば川辺に咲きしたんぽぽの花(白百合の花)」と手直しされてしまう。素人の口出しとはいえ、元の歌より良くなっているのは認めざるを得ず、西行は自分の修行の足りなさを実感する。

ふと気づくと、あたりはまだ昼で、宿も何もない。西行は滝のほとりで、夢を見ていたのだった。

実はこの3人は和歌三神(住吉明神、人丸明神、玉津島明神)の化身で、慢心した西行を戒めるために現れたのだった。

2.赤穂義士外伝・天野利兵衛(参考口演一龍齋貞山師参照)
 天野屋利兵衛は泉州堺の廻船問屋の主人で、播州赤穂藩五万三千石の藩主、浅野内匠頭長矩からは深い恩を受けていた。その浅野内匠頭が殿中松之廊下で吉良上野介を刃傷、即日切腹、家は改易となった。それを聞かされた利兵衛。妻には去り状(離縁状)を渡し、七歳の一人息子の七之助を連れ、具足櫃(鎧・兜を収める箱)を背負って槍を担ぎ赤穂へと向かった。仲間に加えて欲しいと言う利兵衛。大石蔵之助は殉死もしない、籠城もしない、主君の仇を討つのでひとまず戻って貰いたいと言う。堺に帰った利兵衛は、吉良邸に討ち入るの必要な忍び道具を揃えるよう、蔵之助から改めて頼まれる。
 その当時、大坂には松野河内守という名奉行がおり、夜遅くまで仕事をしている利兵衛を怪しんで家宅捜索をした。見つかったのは忍びの時に使うロウソク立てが五十丁。謀反人に与する者して捕らえられた。
 取り調べでは忍び道具の頼み手を追及されるが、義理ある方から頼まれたからと白状しない。拷問を受けやつれ果てた利兵衛。倅の七之助が白洲に連れられてきた。七之助は今、家主に預けられているが、友達には泥棒の子とからかわれているという。子供にまで辛い思いをさせているとは心苦しい。河内守の許しがあり利兵衛は七之助をしっかり抱く。白状すればこのかわいい子供と帰宅できると河内守は説得するが、それでも利兵衛は口を割らない。父と子は引き離され、白状しなければ七之助を鞭で打ち付けると脅される。泣き叫ぶ七之助。子供には愛があるが、頼まれた方には義理がある。「天野屋利兵衛は男でござります」。河内守は子供を打ち付けるような愚かな事はしない。
 続けて利兵衛の妻ソデが、夫は謀反人ではないと奉行所に訴えに来る。利兵衛が制止するのにも関わらず、ソデは全てを話す。利兵衛が最も繁く出入りしていたのは浅野様の屋敷で、浅野の殿様からは格別の世話を受けていた事、浅野様切腹お家断絶の後に利兵衛から去り状を渡され里へ帰れと言われた事、利兵衛は息子を連れて具足櫃を背負い槍を担いで赤穂の城へ向かった事を話す。これを聞いた河内守。具足櫃は侍が使うもので、利兵衛のような町人が使うものではない。この者のいう事は信用できない、と妻ソデを追い払ってしまう。河内守は以後、利兵衛の取り調べをせず、牢内に入ったままになる。
 年が明けて、赤穂浪士は仇討ちを決行し吉良の首を討ち取ったという話が利兵衛の耳にも入る。河内守の前で、利兵衛は忍び道具の頼み手は大石蔵之助であると明かす。河内守も実は気付いていた。吉良と浅野の争いであれば、天下を乱すような大事にはならないであろう、さらに忠義の邪魔はしたくないと取り調べを中断したのだと言う。赤穂浪士の仇討ち成功の裏には、このように名奉行・松野河内守と男の中の男・天野屋利兵衛の力があった。

3.日蓮聖人御一代記 誕生から入滅までと堀之内妙法寺様の除厄けやくよけのお祖師さま(おそっさま)のいわれについのお話しにて
弘長元年(1261)日蓮大聖人が鎌倉由比ヶ浜から流罪の為、伊豆伊東に流される直前の事。

日蓮大聖人の身を案じ、お役人たちの制止を振り切った弟子の日朗上人は、やっとの思いで聖人の乗った船に近づきお供を申し出ました。

ところが、その信念に恐れをなしたお役人は逆上し、怒りのあまり櫂で腕を打ち砕き、日朗上人は波打ち際に倒れ込んでしまいました。

弟子の進言も聞き入れられる事なく、船が漕ぎ出ようとした時、「旭が東天に輝くときは、汝の無事であることを思う。日が西に照るのを見たら日蓮は伊東で無事であることを知れ・・・」とのお言葉を日蓮大聖人は残され、船は高波の沖に消えて行きました。

日蓮大聖人のお姿が見えなくなっても、日朗上人の御題目の声はいつまでも由比ヶ浜に響いていたそうです。

爾来、日朗上人は鎌倉に留まり日夜、幕府に捕らわれた大聖人の身を案じ、生き別れた由比ヶ浜にて祈念を続けられます。

何十日たった頃でしょうか・・・ある夜のこと。 不思議な光を放ち漂う霊木が、日蓮大聖人の見えなくなった沖から日朗上人の膝もとまで流れて参りました。

日朗上人はその霊木が佛天の導きと拝し、日蓮大聖人のお姿を彫刻し、その尊像に昼夜を問わず給仕し、ご無事を願いお仕えし続けました。

約壱千日を過ぎた三年後に祈りは報われ、日蓮大聖人がお戻りになられました。 日朗上人は、早速に御尊像をお見せすると、日蓮大聖人は守護の信仰に大変喜ばれ、自ら尊像開眼し、魂を込められました。

この時、日蓮大聖人が数え年42歳だった事から、この御尊像を「除厄け日蓮大菩薩」と呼ぶようになりました。

現在、当山祖師堂に御奉安されている「除厄け祖師」がその、ありがたい御尊像です。 必ずや皆様をお護り致します。
(堀之内妙法寺様由来より引用)

*一龍齋貞鏡さんより 来る12月5日(火)BS朝日午後九時より京都ぶらり歴史探訪に弥次喜多道中の講談にて出演されます。皆様も是非見て応援してあげてください。

*京都本山妙顕寺様にて11月23日~12月10日迄「龍華の秋」が開催されます。(画像パンフ参考にしてください。)