
去年の秋、私は気づいたら月の残業が80時間を超えていた。
特別なことは何もしていない。いつも通り仕事をしていただけのつもりだった。朝早く来て、夜は誰よりも遅く帰る。IT部門長として当然だと思っていた。ところがある朝、鏡を見たら顔が別人のようにやつれていて、自分でも驚いた。
「まだ大丈夫」という感覚は、実は一番危ない状態のサインかもしれない。
この記事では、IT業界の長時間労働がなぜ構造的に生まれるのか、働きすぎが身体・精神・組織にどんな弊害をもたらすのかを、データと私自身の経験を交えながら整理したい。あなたが管理職であれ、現場のエンジニアであれ、他人事ではないはずだ。
「働きすぎ」は根性論の話じゃない――データが示す死亡リスク
WHO/ILOが警告する「週55時間の壁」
2021年、世界保健機関(WHO)と国際労働機関(ILO)が衝撃的な論文を発表した。
週55時間以上の長時間労働が原因で、2016年には74万5000人が死亡したというのだ。2000年と比べると29%の増加。死因の大半は脳卒中と心臓病だった。
「過労死」は日本特有の概念だと思っていた人も多いかもしれないが、実態はグローバルな問題だ。働きすぎは、意志の弱さでも体力不足でもなく、純粋に医学的なリスクとして世界的に認識されている。
日本のIT業界が特に危険な理由
日本でも状況は深刻だ。厚生労働省の「過労死等防止対策白書」(令和6年版)によると、精神障害の労災請求件数は働き方改革関連法の施行後も減少せず、増加傾向が続いている。
IT業界はその中でも、脳・心臓疾患と精神障害の労災が多い業種の一つとして名指しされている。IT人材不足は2025年時点で36万人超と推計されており、一人あたりの業務負荷は今後さらに増す方向だ。
IT部門が長時間労働から抜け出せない3つの構造的問題
IT部門の長時間労働は、個人の頑張りとは別の次元に根本原因がある。私がこの10年で見てきた構造的な問題を3つに整理する。
①プロジェクト後半に時間外労働が集中する「工程の歪み」
ITプロジェクトは複数の人間が分業で進める。企画・要件定義・設計・開発・テスト・リリース。前工程でのズレや曖昧さは、後工程に雪だるま式に降り積もる。リリース日は変えられない。だからテスト期間と直前の追い込みで異常な残業が発生する。
これは個人の怠慢ではなく、プロジェクト管理の設計問題だ。ただ、「いつもそうなる」という慣習が染み付いてしまって、誰も疑問を持たなくなっている現場が多い。
②人手不足が引き起こす「一人多役」の常態化
前述のとおり、IT人材不足は業界全体の問題だ。採用できないから今いる人間に仕事が集中する。その結果、一人の担当者が開発・保守・問い合わせ対応・セキュリティ監視を兼任するようになる。
特に中堅・中小企業のIT部門はこの傾向が強い。私が管理する部門でも、ある時期に一人の担当者が「社内ヘルプデスク・サーバー管理・基幹系の改修開発」を同時に抱えていた。これは構造的なブラック化であり、誰か一人が倒れたら組織が止まるという意味でリスク管理上も失格だった。
③管理職も同じく追い詰められている「罰ゲーム化」
2026年の人事トレンドとして「管理職の罰ゲーム化」という言葉が注目されている。部下の労働時間を管理する義務を負いながら、管理職自身も業務過多で余裕がない。部下の兆候に気づけないまま、気づいたときには休職・退職という事態になる。
私自身、この罠にはまったことがある。部下の申告残業時間は適正範囲に見えていたが、実際は「申告できない残業」が積み上がっていた。管理職が忙しすぎると、現場の実態把握が数字だけになっていく。それがいかに危険か、身に染みた経験だ。
働きすぎが引き起こす弊害――身体・精神・組織への影響
バーンアウトは「弱さ」ではなく生理反応
バーンアウト(燃え尽き症候群)とは、長期にわたるストレスや過労によって、心身のエネルギーが枯渇した状態を指す。あるデータでは、ナレッジワーカー(知識労働者)の71%が少なくとも一度はバーンアウトを経験したと回答しており、その原因の約半数が「働きすぎ」だった。
バーンアウトが怖いのは、それが気合いの問題ではなく、脳と身体の生理的な反応だからだ。慢性的な疲労が続くと、コルチゾール(ストレスホルモン)の過剰分泌により免疫機能が低下し、睡眠の質が落ち、判断力・集中力が劣化する。
睡眠スコアや心拍変動を毎日モニタリングすることで、バーンアウトの兆候に自分で早期に気づける
生産性は長時間働くほど下がる逆説
私自身、部下の残業を削減した翌月に生産性が上がった体験を複数持っている。週50時間を超えた労働では1時間あたりのアウトプットが急激に落ちるという研究結果とも一致する感覚だ。
「長く働く=たくさん仕事をする」は錯覚だ。疲弊した頭でこなした3時間より、集中した1時間の方が成果物の質が高い。これは管理職になってから何度も実感してきたことだ。
私がIT部門長として実践していること
「見える化」で部下の残業に早期に気づく
申告残業だけを信じないことにした。具体的には、PCのログオン・ログオフ時間とメール送信時間帯を定期的に確認する仕組みを入れた。申告と乖離があればその場で理由を聞く。責める目的ではなく、業務量の調整やサポートの必要性を判断するための情報として使っている。
心理的に安全な相談窓口の設置も効果があった。「困ったときに言いやすい空気」は、制度よりも人間関係から生まれる。
AIツール導入で工数を削った実例
最近、社内の問い合わせ対応にAIチャットボットを導入した。月間300件程度あった定型問い合わせの約40%が自動応答に変わり、担当者の対応工数が大幅に削減された。「AIを入れる工数」が最初のハードルだったが、一度回り始めると効果は持続する。
完璧を求めずに「まず動かす」という割り切りが、AI導入を成功させる唯一のコツだと今は確信している。
【商品カテゴリ:ビジネス書・働き方改革本】
(チームの生産性改善や業務設計の再構築に、外部の視点と手法を取り込むのが近道)
2026年の法改正で何が変わるか
労基法改正で「勤務間インターバル」が義務化へ
2026年現在、厚生労働省の労働政策審議会では、労働基準法の約40年ぶりとなる抜本的改正が議論されている。注目点の一つが「勤務間インターバル制度」の義務化だ。
勤務間インターバルとは、退勤から次の出勤までの間に一定の休息時間(インターバル)を確保することを義務づける制度。現状は努力義務にとどまっているが、義務化されれば深夜退勤・翌朝出勤という過酷なシフトに歯止めがかかる。2027年以降の施行が見込まれており、企業としての備えが必要だ。
IT部門長の立場から言えば、インターバル義務化はシステム開発のスケジュール管理にも影響が出る。リリース前の追い込みで「終電まで作業→翌朝9時に出社」という運用は、法的にアウトになる可能性がある。今のうちにプロジェクト管理の見直しを始めることをすすめる。
まとめ――健康は最強の投資
「働きすぎ」は本人の問題ではなく、組織の設計問題だ。
この3年で学んだのは、「早く帰ることへの罪悪感」を手放すことが生産性向上の第一歩だということだ。健康を維持することは、自己管理の話であると同時に、長期的に高いパフォーマンスを出し続けるための戦略だ。
あなたの組織は、今日も誰かが限界に近づいていないだろうか。管理職であれば、それを「自分ごと」として見る習慣から始めてみてほしい。
