こんばんは!

私の介護生活が始まったのは、義母が認知症では?と思い始めたことからでした。
せめて車の運転をやめて、一緒に買い物に連れて行こうと思ったことからでした。
うちは、田舎なので、車がなければ、ゴミ捨てすら行けません。義母はその時点で80歳を過ぎていましたが、(83歳?)どこに行くにも車でした。ある時、義母の車がありません。事故をしてコンビニに突っ込んだらしく、レッカー車で修理工場に運んでもらったらしいのですが、義母はそのことを全く覚えていなかったのです。幸い、人様には何もなく、お店の方も良い方だったので、その事は義父に知られることなく無事に終わったのですが、そこからが、私の介護生活の始まりでした。

私がフルタイムで、ずっと働いてこられたのは、義母のおかげです。隣に住む義母が子ども達の保育園のお迎えに行ってくれ、私が仕事で遅くなる時は、晩ごはんも食べさせてくれたりもしました。義母がいなければ、働き続けることも、もしかしたら、子どもを3人産むこともできなかったと思います。お節介で、私達の部屋にも勝手に入ってくることは、その当時はイヤでした(今の私は次男家族の家には入りません。用があればインターホンを鳴らし、玄関で話します。)が、義母が私のことを実の娘のように思ってくれていたのだと思います。


私は、これからは恩返しのときだと思いました。
私は、仕事を退職し、半日だけのパートに転職し、義母のアッシーになりました。
でも、運転だけでなく、日常生活が、既にできていない状態でした。
一緒に住む義父は、そんな義母に怒るだけで、認知症とは思っていません。

私は、義母を認知症専門医に連れて行きました。診察まで、予約から3ヶ月待ちでした。義母は、ピックとレビー小体型の複合型認知症と診断されました。
毎回の通院は一日がかりで、パートも行けないけれど、少しでも進行を遅らせたい一心でした。

義父は、そんな私に対して、私がそんな病院へ連れて行ったから、義母がおかしくなってしまった、と私を責めます。このときから、義父がイヤになったのですが、義父はそんなものではなく、もっともっと私を苦しめるのでした。

私は義母のお世話をするのですが、義父は、何もできなくなっていく義母に怒り、私にも怒り、義母は義父から殴られていました。

でも、義母は殴られたことも忘れてしまうので、それは救いでしたが…

私が退職して、介護が始まってから、急激に認知症が進行しました。ピックとレビーの複合型って、アルツハイマーよりもすごく進行が早いことが驚きでした。

義母の介護記録は(義父もですが)パソコンに記録してありますが、今はそれをみることはありません。

今日は、これくらいで

義母の介護は、義母が老健に入所(現在は特養)するまでの3年間でしたが、それは、義父の介護の始まりでもあったのです。

今日は、パートの子どもがお手紙と似顔絵を書いてくれました。時々、そういうときがあります。写真を載せたいけど、まだ、写真の名前のところを消すとか処理の方法が分からないので、ここに出せません。残念…

では、また、少しずつ書いていきます。

ぐうたらkeiちゃん