(エジプトの旅、その5)

 

 ギザにあるあの有名な大スフィンクス像を見ると、思い出してしまうのが、江戸時代末期の文久元年(1862)、開港延期の外交交渉のため徳川幕府からヨーロッパに派遣された文久の遣欧使節団の写真だ。この中には福沢諭吉も含まれていたが、一行は往路、スエズに上陸した際、カイロにも立ち寄り、ピラミッドを訪れ、このスフィンクス像の前で記念写真を撮っていた。遠望のため遠目にしか写っていないが、羽織袴のちょんまげ姿で、そのコントラストがいたく印象に残っている。

(大スフィンクス像の前の使節一行)

(文久の遣欧使節団一行、正使の竹内保徳の後ろ右に立っているのが福沢諭吉)

(ロンドン万博)

(ロンドン万博を見学する使節団一行)

 これが、おそらく日本人が初めてエジプト文明を目の当たりにした写真ではないかと思う。一行はこのあとロンドンで、産業革命の成華であるロンドン万博に出席することになるが、東洋のはずれの封建社会の侍たちが中東の古代文明とヨーロッパの近代資本主義文明という、自らとは全く異質の文明を体験することになる、そういう記念すべき写真の一枚ということになる。

(大スフィンクス像と河岸神殿の位置。そこからカフラ王のピラミッドまで参道が続く)

 ピラミッドを見終わったあと、つぎに行ったのはすぐ傍にある大スフィンクス像である。カフラ王のピラミッドと参道で結ばれた河岸神殿の脇にあるもので、ライオンの胴体の上に乗る顔はカフラ王を象ったと言われる。カフラ王のピラミッドを守る守護神とも言われる。

(上流にアスワンダムが造られる前は、洪水は毎年のことで、ピラミッド近くまで水がやって来た)

 河岸神殿は、ナイル川の氾濫期になると、この傍まで水がやって来て船着き場になり、カフラ王の遺体を都メンフィスからここまで船で運び、神殿でミイラにしたと言われる。河岸神殿とスフィンクスとピラミッドは一体的な葬送の施設・構造物ということになる。

(駐車場から河岸神殿に向かって歩く。正面に見えるのはカフラ王のピラミッド)

(路の両側には土産物売りの店が並ぶ。売り子の兄ちゃんが写真を息子に売り付けようとしているところ。指5本立てているので、500エジプトポンドなのだろう)

(土産物売り場の脇の路を歩いていくと、右手に河岸神殿の建物が見えてきた。その上にちょこっとスフィンクスの頭が見える。その向うはクフ王のピラミッド)

(河岸神殿の背後から見ると、大スフィンクス像とカフラ王のピラミッドが見える)

(上空から見た河岸神殿(左側)と大スフィンクス像、ネット写真)

(河岸神殿の内部、列柱が並んでいる。花崗岩で出来ている)

(写真を撮る息子。ここでカフラ王の遺体はミイラにされた)

(花崗岩の調製技術の素晴らしさを説明するガイドのガブリさん)

(河岸神殿の階段を上がって行くと大スフィンクス像が現れる)

(大スフィンクス像の頭部)

(興奮して写真を撮る息子)

(見学が終わり、駐車場に戻る息子)

(道端には観光用のラクダや、モノを運ぶ馬がつながれていた)

 

 文久の遣欧使節が日本人として初めて大スフィンクス像を見てからほぼ150年。悠久のエジプト文明から見れば、人生を2回生きたほどの時間でしかない。その間に使節の末裔である日本人は、私たちのように大挙してギザを訪れている。それも使節一行のような船の長旅ではなく、1日もかからず成田から飛行機でやってこれる。産業革命以後の技術の革新、とくに交通機関や情報手段の発達は、冷静に考えると、気が変になるほど驚異的である。

 

 福沢諭吉など遣欧使節一行はロンドンで産業革命の華、蒸気機関車の姿を見たであろうが、もし今もう一度エジプトを訪れたらどのような感慨を持つであろうか、と妄想する。スフィンクスは昔と全く変わらないが、空を飛ぶ乗り物であっという間にやって来れて、自分たちがロンドン万博で見た産業革命の成果がここまで来ているのかと、目を丸くし、おそらく卒倒する者も出るだろうことは想像に難くない。

 

 しかしあと150年たったら、ピラミッド観光はどうなっているんだろうか、と思う。瞬間移動で瞬く間に訪れることでも出来るようになっているのだろうか、それとも現代文明が加速度的に進みすぎて、エジプト文明ともども地球から消え去っているのだろうか、などと余計な心配をしてしまう。

 

(続く)