(エジプトの旅、最終回)
ハーン・ハリーリ市場のあと、つぎにやって来たのはシタデル(城塞)である。
(車の中から見えたシタデル(城塞、右側))。外壁と19世紀に造られたイスラム寺院(モハメドアリーモスク、左側)からなっている)
シタデルは12世紀後半、アイユーブ朝を始めたサラディンによって、当初は十字軍の侵攻に備えて造られ始め、その後13世紀前半には王宮となり、エジプト統治の拠点となった。以後マムルーク朝を経て、16世紀からエジプトを支配したオスマン帝国(都はイスタンブール)でもエジプト州総督が居住し、19世紀に入ってからは、帝国内の半独立国家であったモハメド・アリー朝(1805~1953、創始者モハメド・アリー)もここを拠点とした。中世の初めから19世紀までエジプトの政治・軍事の中心としてこの城は機能したのである。近代に入って新市街が作られ、行政の中心はそちらに移るようになる。
(城壁と見張り用の塔)
(シタデルの全景。その中にモハメド・アリーモスクがある(ドームのところ)。モスク自体は近代に入ってモハメド・アリーによって造られる)
(モハメド・アリーモスク。イスタンブールのブルーモスクを模して造られる)
(モハメド・アリー)
モハメド・アリーは宗主国オスマン帝国にかわってエジプトの近代化を進めた。彼のもとでエジプトの国力は急速に増強され、エジプトのオスマン帝国からの事実上の独立を達成し、その後のエジプト発展の基礎を築いた。近代エジプトの父、エル・キビール(大王)と呼ばれ、死後もエジプトの強さと先進性の象徴であり続けている。日本でいうならば明治国家の基礎を作った大久保利通や伊藤博文のような人物である。モハメド・アリーモスクは19世紀の前半にアリーの命令で造られたものだが、性格は違うが皇居の傍に造られた靖国神社に似ている。
(モスクの中に入る。靴は脱ぐ)
(モスクの中庭の中央に泉があり、そこで手足を洗って身を清め、その後に礼拝所でお祈りをする。日本の神社で、参拝前に御手洗で手や口をすすぐのと同じである)
(靴を手に持って礼拝所に向かう)
(モスクの天井)
(ガイドのガブリさんからモスクの簡単な説明を受ける)
(ミフラーブ(白い階段状のところ)が祈りをささげる目印であり、ここは聖地メッカの方角を示している)
(モスクの模式図。中央に中庭と泉があり、聖地メッカの方向に向いてミフラーブがある)
モスクを見終わった後、シタデルの城壁の傍までやってきて、カイロの街を眺めた。カイロの街の象徴である、蓮の花をイメージした高さ138mの塔や、遠くには昨日行ったギザの三大ピラミッドまで見ることができた。
(モスクを出て城壁の傍、右手はモハメド・アリーモスク)
(反対側にはピラミッドの石灰岩の石切り場の跡も見える)
(城壁からカイロの市街を眺める)
(モハメド・アリーモスクを出たところでもらったコーランを見ている息子)
(城壁からカイロ市街を眺める)
(ナイル川の中州に建つ、蓮の花をイメージした塔が見える)
(遠くにはギザの三大ピラミッドも見える)
旅もこのシタデル見学で終わりとなった。
(夜8時のドバイ行きのカタール航空機に乗る)
(ドバイでトランジット。だが、乗り換え便の搭乗口が決まらず、夜中6時間ほど待つ)
(明け方、ドバイで乗り換え便に搭乗)
(上海上空までくる。あと2時間で日本)
(羽田に到着)
(入国審査を終え、機内荷物を取ってモノレールに向かうところ)
この旅はそれぞれに思い出深いが、やはり一番印象深いものは50年ぶりのツタンカーメンの黄金のマスクとの再会であった(エジプトの旅、その1)。いや、マスクとの再会ではなく、50年前の少年時代の自分との再会であった、というところが本当のところかもしれない。人生には、幾重にも重なるこのような不思議なめぐり合わせがあるものなのだと、その後8年した今、感慨深く想っている。
(了)
























