(イタリアの旅、その6)

 

 サンマルコ寺院見学の後、定番のコースでヴェネチアングラス工房を見学し、大運河に架かる観光名所のリアルト橋を訪れ、迷路のような路地を歩いて、昼食のレストランでこれも定番のイカ墨パスタを食べ、その後サンマルコ広場の北側にあった船着き場から最初に着いたバス停留所まで船で戻った。時間は午後になっていたが、次の目的地のフィレンツェに向かってバスは出発した。

 

〈北イタリアの農業と地形〉

 バスはヴェネチアの街を出てすぐに高速道路に乗ったが、間もなくして高速道路に事故があり、一般道路に下りることになった。その間1時間程度であったが、バスはポー平原の農村地帯をじかに見ながら走ることになった(地図1)

 しかしこれがよかった。農家の様子や畑の農作物を見ながら走り、北イタリアの農業はこんななのかと知ることが出来た。見た限りでは、ポー平原に見られる水田地帯は確認できなかったが、畑ではブドウやトウモロコシが栽培されていた。ブドウはイタリアでは一般的であろうが、トウモロコシは家畜用の飼料作物で、北イタリアに顕著な混合農業の作物なのだろうと思った。

  ポー川流域の米作といえば昔のイタリア映画の『苦い米』(1949)がある。泥棒の2人組が女性だけの田植え労働者の中に紛れ込む話だが、ポー川流域の水田風景と田植え作業が出て来る。旅行した時期が8月なので稲穂でも見えるかと思ったが、残念ながら出会えなかった。

 バスも高速道路に戻り、ポー平原を過ぎてボローニャも近くなると山がちの地形になって来た。そこはイタリアの背骨のアペニン山脈で、道路が通じる低陵部は最高地点で標高900mほどで、周囲には低い山々が連なっていた(地図1)

 

(地図1、アペニン山脈の山々) 

 小丘陵や灌木地帯を脇に見てバスは走ったが、ボローニャを過ぎて2時間ほどして「フィレンツェ」という標識が見え、フィレンツェの近くまでやって来たことが分かった。まだ明るかったが、時間は夕方の6時ごろになっていた。

 ホテルに到着したのは7時過ぎで、すでに外は暗くなっていた。ホテルはフィレンツェ市街ではなく、北西に10キロほど離れたカレンツィーノという町にある「デルタ・フローレンス」という名前のホテルだった。このようなツアーでは市街地のホテルは取れないのだろうと思う。部屋はツインで、中級ホテルというところであろうか。

 

〈ホテル「デルタ・フローレンス」〉

 

〈市内観光へ〉

 翌朝となり、旅も4日目となった。今日はフィレンツェ観光である。いつもの早朝の散歩をし、1階ロビー横のレストランで朝食を摂り、バスで市内観光に出かける。

 

(朝食前のホテルの中での息子)

(ホテルの1階ロビーと周辺) いつもの通り、朝食前にホテルの周辺を散歩した。

(朝食の風景) これもいつもと同じコンチネンタルスタイルの朝食だった。

(ミケランジェロ広場)

 市内観光の最初の目的地は、フィレンツェ旧市街が一望に見渡せるミケランジェロ広場である。定番のスポットであるが、ホテルから2・30分で到着した。

(地図2、ミケランジェロ広場の位置)

 

 

(ミケランジェロ広場に着いて)

(ミケランジェロ広場から見える旧市街。ネット写真)

 高校の教員時代には世界史も教えていたが、教科書や図録の「イタリアルネサンス」の項目に必ずこの広場から見える風景が載っていた。「花の都フィレンツェ」を象徴する風景であり、一度は行って見たいと長く憧れていた場所だった。中世を思わせるフィレンツェ旧市街を眼前にして「これがそうか」と正直「感激」であった。

〈ウフィツィ美術館へ〉

 ミケランジェロ広場から旧市街を眺めた後、徒歩で旧市街観光をするため、バスはアルノ川を越えた場所で私たちを下ろした。そこからまず最初の見学場所・ウフィツィ美術館を目指して歩いて行った。

 

(地図3、赤い実線がウフィツィ美術館まで歩いて行ったルート)

 

 中世を思わせる古い町並みを歩き、まず途中のサンタクローチェ教会までやって来た。

 サンタクローチェ教会には入らず、その前の広場を横切り、また路地に入り、ウフィツィ美術館の方へ向かって歩いて行った。

 路地を進んでいくと、建物の合間からウフィツィ美術館隣りのヴェッキオ宮殿の塔が見えてきた。

 ヴェッキオ宮殿の背後にあった小さな広場の脇を通り、クランク状に折れていくとそこはウフィツィ美術館であった。ウフィツィ美術館とは、もともとは中世フィレンツェを支配したメディチ家の事務所(オフィス=ウフィツィ)であり、その所有した膨大な絵画などの美術品を展示している、世界的に著名な美術館である。私たちは中庭に入り、そこにあった入場口から美術館の中へ入って行った。

 ツアーの見学は次の目的地ピサに行くため1時間半程度であったが、私はツアーの人たちとは離れ、自由行動をすることを申し入れていた。ピサには行かずに、美術館をゆっくり見たいのと、フィレンツェの街歩きを楽しみたいからだった。

 

(続く)