(イタリアの旅、その10)

 

 午前11時前にはシエナを出発して、私たちのバスは高速道路をローマに向かった。ローマまでは距離にして150キロ程度であり、3時間半ほどかかった。

 道路はアペニン山脈の西側の麓を走っており、左手にはなだらかな山々が見え、平地にはブドウ畑などが見えていた。

(地図1、イタリアの地形とシエナからローマへの道筋)

 イタリアなどに見られる地中海式農業はその気候に合わせ、高温乾燥の夏はオリーブなどの果樹栽培、雨の降る冬には小麦栽培を行うのが特徴である。オリーブはぴったりと気候帯に重なって居り、ブドウ・オレンジなどの果樹は気候帯以外へも広がっている。

 

 8月末の旅行だったので小麦畑は見なかったが、畑に弦用の棒を刺したブドウ畑は頻繁に見えた。オリーブはあまり見かけなかったが、ちょっと外れれば広く見られるという。その後にスペインに行ったときは、地中海沿岸のミハスからバレンシア地方にかけて車窓から延々とオリーブ畑が見えていたことを思い出す。

〈イタリアの地中海式農業〉

 

(地図2、ヨーロッパの農業の様子と地中海式農業地域)

 ローマに近くなった昼過ぎに、高速道路のドライブインで昼食となった。そこでは定番のピザとワインということであったが、考えてみればみな地中海式農業の作物を加工・調理したものである。ピザの生地は小麦粉からだしワインはブドウである。パスタも小麦粉の麵だし、オリーブオイルをふんだんに使う。日本でも日常的に食べるが、イタリアに来てみてのそれは、地元の料理なのだと改めて実感する。味も本物の味がする。気候や環境がそうさせるのだろう。

 ローマ市内を流れるテベレ川が見え、バスは2時前にはローマ市内に入って行った。まず訪れたのはカトリックの総本山、サンピエトロ大聖堂である。バスはサンピエトロ広場前の駐車場に停まった。

 

〈サンピエトロ大聖堂に到着して〉

 バスから降りた私たちは道路を越えて広場に入って行ったが、目の前に見えてきたのは広場を取り囲む円形の白い柱廊とその奥の大聖堂であった。私はその壮大さと威容に圧倒され、「これがあのサンピエトロ大聖堂か」と息をのんだ。息子は「おお」と感嘆の声をあげていた。よほどの感動だったようである。

 

 私たちは中央のオベリスクと噴水の間を抜け、右手奥のチケット売り場まで行った。そこで添乗員さんからチケットを手渡され、大聖堂の中に入って行った。

 大聖堂に入った瞬間に、薄暗がりから見えてきた内部の豪壮さに圧倒されたが、私はまず、入り口右手にあるミケランジェロの傑作「ピエタ」像を捜してしまった。これが大聖堂では最も見たかったものである。

 

〈「ピエタ」像〉

 どの本にも書いてあることだが、「ピエタ」とはイタリア語で「哀れみ」「慈悲」を意味する言葉で、磔から引き下ろされたイエスの亡骸を母マリアが膝の上に抱いている像である。15世紀末に制作されたミケランジェロの出世作にして傑作の一つで、わずか24歳の時の作品である。私にとっては、教えていた高校の世界史の授業で、教科書や図録には必ず載っていたものである。

 

 ピエタ像は、礼拝所のガラスを隔てた向こう側に置かれていた。そこだけがスポットライトを浴びており、遠目に見た瞬間にゾクッとする感情が走った。「これがあのピエタ像か」と、実際の像を目の当たりにして思わず息をのんだ。前には人はあまりおらず、近寄って1分近くガラスの前で直に眺めることが出来た。感無量であった。

(ミケランジェロの「ピエタ」像)

 実際にこの像を見て、やはり「凄い」と思った。イエスの亡骸と対になる伏した目のマリアの表情は、率直に美しいと思った。

 

 ピエタ像の解説については様々あるが、マリアの姿とともに、私にとって印象深かったのは遺骸となったイエスの姿であった。指の先まで脱力した右手や二肢、痩せ衰えた胸と腹、後ろへ崩れた頭部など、死せるものの姿があまりにリアルに感じられた。

 

 この像については、マリアの顔の若々しさがいつも話題となるが、ミケランジェロ自身はその理由を、マリアの処女性(「純粋な魂は老いない」)にあると述べている。その点から、ミケランジェロにとってのマリアは、ただの「母」ではなく、「神の母」であり、「永遠の処女性」を持つべき存在であったと言われ、その内面的な崇高さを、あえて「若さ」という外見に込めたのだと言われる。

 

 私は、仮にイエスの亡骸が無く、いわゆる幼子を抱いた「聖母子像」であったなら、マリアの評価はどうなっていたであろうか、と思う。おそらくそこには「永遠の処女性」「純粋な魂」「神の母」「内面の崇高さ」などという評価が生まれることはなく、よく彫られた若い娘の顔立ちと言うのみであったであろう、と思う。この像の「凄さ」は、磔刑となったイエスの「人の死」とそれを抱くマリアの若い「神の母」が対比関係にあり、見る側に無意識の共振を呼び起こしている点ではあるまいか、と思った。「純粋な魂」「内面の崇高さ」などとの評価は、この人間イエスのリアルな無残さがあったが故なのではないか、と今改めて思っている。

 

 いずれにしても全く隙もなく完成された像であると思う。しかしこういう像をわずか24歳で制作するミケランジェロとは・・・「天才」とは居るものだと思う。ここまで旅に来た甲斐があった。

 

〈堂内を廻って〉

 堂内を進んでいき、右手の方には聖ペテロの像があった。サンピエトロ寺院の基となったイエスの12使徒の筆頭のペテロの像である。多くの人がその前に列を作って並んでおり、一人一人、その右足のつま先を撫でていた。カトリック信者にとっては信仰の対象であり、体に触れることがその証の一つであるのである。観光旅行者に過ぎない私たちも記念にと触れていった。

 つぎに最も奥の祭壇の場所に行った。そこにはベルニーニ作「ブロンズの天蓋」(1634年完成)がねじれた4本の柱で立っており、この中に祭壇があって、聖ペテロの墓がその下にあるという。

(ベルニーニ作「ブロンズの天蓋」)

 サンピエトロ大聖堂は、この地で聖ペテロが殉教した場であることに由来している。ここはもともと帝政ローマ時代には競技場のあった場所で、紀元64年、ペテロは皇帝ネロの迫害を受けて、ここで処刑された。そのためカトリックの聖地として崇められ、多くの巡礼者が訪れるようになったが、キリスト教を公認したコンスタンティヌス帝によって、324年、ペテロの埋葬地に聖堂を建設することになる。しかし1千年以上たったルネサンス期には崩壊が進み、歴代教皇の命と、著名な芸術家により、16世紀から17世紀にかけて再建されることになった。サンピエトロ大聖堂が現在のような形となり、ミケランジェロの彫刻やベルルーニのブロンズの天蓋が置かれているのはそのような背景がある。

 

〈ローマ教皇と教皇領〉

 私たちはその後、添乗員さんに促されてミケランジェロの設計となるクーポラなどを見上げたが、ほどなくして見学を終えて外に出た。階段を下りる時に右手に見かけたのが大聖堂を守る衛兵の姿であった。

 もともとこれらの衛兵は16世紀に、教皇ユリウス2世が常備軍としてスイス人傭兵を雇い入れたものに始まり、現在も135人の精強なスイス人の若者たちが教皇の身辺を警護し続けているのだという。皆下にあるような伝統的なスタイルをしている。

 

 ローマ教皇(法王)はカトリック教会の最高指導者で、世界の信徒14億人の頂点に立っている。ヨーロッパに広がったキリスト教会は古代ローマ帝国の東西分裂に従ってローマのサンピエトロ大聖堂とコンスタンティノープルのアヤソフィアという二大教会がそれぞれの中心となったが、11世紀半ばに至ってカトリック教会とギリシア正教会に正式に分離した(地図3)

(地図3、ヨーロッパのキリスト教)

 ローマ教皇の領地である教皇領はフランスカロリング朝のピピンの寄進で8世紀の半ばに成立し、ローマ教皇は一個の教会国家の政治権力となっていった。中世期を通し神聖ローマ帝国などと聖俗の対立が続いたが、ルターなどの宗教改革以後は権威が著しく低下し、イタリア中部のローマ教皇領を中心とする一宗教領主の存在となって行った。さらに1860年代のイタリア統一運動の中で、その領地はローマとその周辺に狭められ、1870年にはイタリア王国に併合されることになった。翌71年にはローマはイタリア王国の首都となり、ローマ教皇はヴァチカンに閉じ込められる形となった。しかしその後20世紀に入り1929年、ムッソリーニによってローマ教皇とヴァチカンは独立国家として認められ、世界で最も小さい主権国家=ヴァチカン市国として存続してきている。

 私たちが訪れたサンピエトロ大聖堂はそのような歴史を経てきている(以下の地図)

 

(15世紀後半のローマ教皇領)

(1861年・イタリア統一時のローマ教皇領)

(現在のローマ教皇領=バチカン市国)

 現在世界人口の約6分の1の信者を持つ教皇は信徒の精神的支柱として世界へ向け様々な発言をし、大きな影響力を持っている。

 私たちが行ったこの旅の2010年当時はドイツ出身のベネディクト16世であったが、その前に娘と行った2005年2月当時はポーランド出身のヨハネパウロ2世であった。ヨハネパウロ2世は、その長い在位期間中、東西冷戦の対立に世界平和を呼びかけ、ワレサを後押ししてポーランドの民主化に大きな役割を果たしたり、イラク戦争にも反対したことで知られている。私と娘が行ったときは亡くなる直前で、重病が伝えられている時であったが、私はいつもやっている早朝のジョギングで、まだ明けやらぬ薄暗いサンピエトロ広場まで行き、この教皇の住まう建物へ向かって祈りの真似事をしたことを憶えている。

 

(続く)