(イタリアの旅、その13)
オプショナルツアーのヴァチカン美術館の見学も11時前には終わり、このあとは自由行動なので、息子と二人でローマ巡りをすることにした。
まず、地下鉄を使って古代遺跡が集中しているフォロロマーノ周辺に行って見ることにした。ヴァチカン美術館のすぐそばのチプロ駅で地下鉄A線に乗り、テルミニ駅でB戦に乗り換え、チルコマッシモ駅で降りた(地図1)。
(地図1、ローマ地下鉄図)
(ローマの地下鉄、チプロ駅)
(テルミ二駅で乗り換えてチルコマッシモ駅へ)
〈チルコマッシモ〉
駅を出て右手に歩いて行くと、すぐそこはチルコマッシモ(古代戦車競技場跡)であった。古代の競技場であったことを示すように、縦長のトラックが一段低くなって見え、周囲には雑草が生茂っていた。私たちはその中を赤点線のように歩いて行った(地図2)。
(地図2、チルコマッシモ付近図)
(チルコマッシモを歩く息子。黄色の点線を歩いて行った)
チルコマッシモは、トラックの規模が縦600m、横200mある。今はほとんど建造物を残していないが、皇帝トラヤヌスによって改造された2世紀初頭には、観客席などの巨大な建物が周囲を囲んでいた(下の想像図)。中央には石造の分離帯があり、そこには優勝記念碑や彫刻があった。周囲の観客席は三階建てで、高さは35mもあったという。戦車競技以外には野獣の見世物も行われ、凶悪犯や初期のキリスト教徒が野獣刑に処せられた場でもあった。この後行くコロッセオと同様にローマ市民向けの見世物の場であった。戦車競技の様子は映画『ベンハー』に出て来るが、そのシーンはまさにこの場所をロケ地として撮影されたという。
〈真実の口〉
つぎにすぐ傍にある「真実の口」に行って見た。本来は古代の集水タンクの蓋であったようだが、今のように永くサンタマリア・イン・コスメディア教会の外壁に飾られて来ていた。『ローマの休日』の有名なシーンの場所であるので、口に触れようと多くの人が並んでいた。時間の関係もあったので、残念ながらここは外から眺めるだけにした。
(地図3、パラティーノの丘付近図)
つぎにチルコマッシモの隣となるパラティーノの丘に行って見た。競技場からそこの建物が見えていたが、入場口から入らねばならず、上の地図3の赤点線のように競技場の脇をぐるっと回って行った。
〈パラティーノの丘〉
パラティーノの丘は、ローマ建国伝説のロムルス・レムス兄弟が住んだとされ、共和政時代の貴族の住居や帝政時代の皇帝の宮殿が建てられた場所で、古代都市ローマの内でも支配層の居住地である。英語の「パレス」はここから来ている。
パラティーノの丘の入場口に近くなると、道路の上を横切っているクラウディスの水道橋跡が見えてきた(地図3)。紀元52年にクラウディス帝によって完成されたもので、パラティーノの丘の宮殿に水を供給するためのものである。私たちは入場口で、次に行くフォロロマーノやコロッセオにも入れる共通券を買い、中に入って行った(地図4)。
(地図4、パラティーノの丘の内部。黄色点線が歩いたルート)
入場口から、クラウディスの水道橋跡の下を抜けて緩やかな坂を上って行くと、正面右側に皇帝セウェルスの宮殿跡(3世紀初)が見え、また振り返るとコロッセオがすぐ前に見えた。
セウェルス宮殿の前のところを右に折れ、さらに進んで行くと、左にドミティアヌス皇帝の宮殿跡(1世紀後半)があり(地図5)、そこには細長いスタジアムが付属していた。
そこを右に曲がってさらに進んで行くと、初代皇帝であるアウグストゥスの屋敷跡(紀元前後)とその妻リディアの家があった。
その脇を通り、右に折れて進んで行くと水飲み場があり、水道から水が流れ出ていた。この日も猛暑であり、息子はたまらず飛びついて行った。
さらに進んで行くと、そこはもう丘の終わりの所であり、見晴らしの良いその場所からは、右手にコロッセオ、正面にはこれから行くフォロロマーノの赤茶けたマクセンティウスのパシリカ跡(4世紀初)が見えた。パラティーノの丘の見学はここまでである。
〈フォロロマーノ〉
見晴らし場所から右手にあった階段を降り、さらに坂を左に下りていくと白い大理石造りの凱旋門が見えてきた。西暦82年にティトス帝の凱旋を記念して造られた「ティトスの凱旋門」であり、私たちはフォロロマーノの東の外れに来ていた。ここからが古代ローマの政治・経済・宗教・司法の中心地「フォロロマーノ」である。この門からは、約300メートルのメインロード・「Vira-Sacra(「聖なる道」))が西のセウェルスの凱旋門まで通じており、私たちはその道に沿って歩いて行った。この道は歴代の皇帝が凱旋した道であり、カエサルや愛人クレオパトラも通った道である。
(地図5、フォロロマーノの主たる建物)
(「聖なる道」を行進するクレオパトラ(映画『クレオパトラ』)
フォロロマーノは古代ローマ帝国の中心地の中のまさに中心である。帝国の行政・経済機能がここに集中していた。同じ古代の日本に譬えるならば平安京の大内裏であり、「聖なる道」は朱雀大路(から続く道)、凱旋門は朱雀門ということになろうか。
私たちはティトスの凱旋門から「聖なる道」を歩いて、見晴らし場所から見えたマクセンティウスのパシリカ跡を右手に見ながら、上の地図5の赤矢印の場所まで来た。手すりのついた展望場所で、ここからは左手に赤茶けた「ヴェスタの巫女の家」(3世紀初)が見え、正面左に3本の白い大理石柱が遺る「カストルとボルックスの神殿」跡(紀元後6年完成)が見えた。この道沿いに数多く見える「パシリカ」とは、裁判や商取引・集会などに用いられた公共施設のことで、その名を冠した皇帝の建造物となる。
(上の場所から左側を眺める)
(地図6)
さらに「聖なる道」を進んで行くと、右にアントニウス・ピウスとファウスディナの神殿(2世紀半ば)があり、遠くに「聖なる道」の終点のセヴェルスの凱旋門が見えてきた(地図6の赤矢印の地点)。
(地図7)
つぎに進むと左にカエサルの神殿跡(紀元前29年)があったが(地図7)、ここは暗殺されたカエサルを荼毘に付した場所であり、火葬場の跡が残っていた。後に神格化されて神殿となっている。右手にはエミリアのパシリカの跡(紀元前34年)があり、前方右手には元老院議場であったクリア・ユリア(紀元前29年完成)が大きく見えてきた。茶色い立方体の建物で、後にキリスト教会として利用されたため永く姿を残してきたが、現在の建物は20世紀に入って復元されたものという。
クリア・ユリア(元老院議場)の中に入って見た。いくつもの彫刻が展示されていたが、薄暗い建物の中を見渡しながら、ここが元老院か、ここで共和政治が行われ、のちにはカエサルやアウグストゥスがローマの政治を主導した場所なのかと、歴史の現場に立っているという言葉にできない感動が湧き上がって来た。
(地図8)
クリア・ユリアを出てまた「聖なる道」に戻ると、左にユリウスのパシリカ跡(紀元前54年)があり、正面にセウェルス帝の凱旋門が聳えていた(地図8)。セウェルスの凱旋門は203年にパルティア戦争での勝利を記念して建てられたものである。セウェルスの凱旋門は映画『クレオパトラ』で、カエサルがクレオパトラを迎える有名なシーンのモデルにもなった門である。
(映画『クレオパトラ』)
以上で、フォロロマーノ周辺の見学は終わりとなったが、今改めて印象に残っていることは、「古代ローマ文明は現代を先取りした文明」ということである。
次に行ったコロッセオもそうだが、市民娯楽のチルコマッシモは現代の競馬場などのスポーツスタジアムであり、クラウディスの水道橋などは現代の都市生活には不可欠のインフラ整備のそれである。フォロロマーノにいくつも見られる公共施設のパジリカは現在の裁判所や公設市場・公民館であり、政治の決定機関であるクリア・ユリア(元老院議場)はまさに今の国会議事堂に当たっている。
これが可能であったのは、広大な帝国領土からの富の集中と奴隷制による市民社会の成立・維持があったが、市民生活のためのローマ法の整備と巨大建造物を可能とするローマンコンクリートの土木技術革新がそれを後押しした。現代は古代ローマ文明の再現であると改めて感じる。
(古代ローマの奴隷の売買)
古代都市ローマが成立・発展した時期(前6世紀~後3世紀末)は日本では縄文時代の最晩期から古墳時代初期の時期に当たる。まだ日本は一つの国家にもなっておらず、民衆は各地の共同体首長の下で稲作を開始したばかりであった。フォロロマーノに見る「都」の成立と整備は、後の飛鳥時代の藤原京の建設や、その後の平城・平安京を待たねばならず、それも自生的なローマとは著しく異なり、専制的な権力による上からの計画都市であった。まして法に依って権利が守られる市民社会などは2千年ものはるか先の時代の話である。
ヨーロッパとアジア、とくに古代のローマと日本の違いはこれほどあるのかと、そういう思いにさせられた。
(続く)




























