(古河公方の成立、その1)

 

はじめに

 

 享徳3年(1454)12月、鎌倉公方足利成氏は関東管領上杉憲忠を西御門御所に誘き出して殺害し、乱開始から間もない翌4年3月に古河(茨城県古河市)へ移座した。それは上杉勢討伐軍の駐留長期化という事態に止まらず、結果として鎌倉より相当数の府奉公衆・奉行人、神官・僧侶・職人等を伴った、権力体としての移動であり、鎌倉府に続く「古河府」とでも呼ぶべき実態を伴っていた(市村2022)。以後最後の公方義氏が天正11年(1583)に死去するまでの約130年間、古河は、戦国期東国における公方御座所=「古河府」の所在地として特異な政治的位置を占め続けることになった。

(古河遠景、古河公方の古河城は渡良瀬川の現在の河川敷にかつて存在した)

 

 なぜ成氏は古河を選んだのか。

 これについては、これまで次のような説明がなされた。すなわち、古河の地が鎌倉府御料所の一つ下河辺荘に位置し、公方移座の経済的基盤が確立していたこと、地理的には利根・渡良瀬両川を「流れる外壕」として自然的要害の地であったこと、政治的には、成氏を支持する結城・小山・宇都宮・那須・小田氏等北関東の旧族領主層を背後にして、武蔵・上野などの上杉氏勢力に対する戦略的位置にあったこと(図1)、成氏の母が古河近辺の水海(古河市水海)に本拠を置く府奉公衆の一人簗田氏の出身であったこと、などである。

 また政治史研究では、成氏は乱勃発時点では鎌倉を放棄し古河を本拠にする戦略ではなく、享徳4年(1455)3~5月の上杉・長尾軍との小栗城攻防戦の長期化や日光山に陣を構えて敵対した兄・長勝寿院門主成潤の存在が古河を選択せざるを得なくなった理由であり(久保2007)、「結果として動座が恒常化したに過ぎない」(和氣2007)との理解もされる。

(図1、享徳の乱の古河公方勢力と上杉氏勢力の分布図、本陣とした古河と五十子の位置)

(鴻巣御所跡。鎌倉公方足利成氏は最初この鴻巣御所に移ったと言われる)

 

 しかし古河の地を選んだ理由は、それだけであろうか。享徳の乱終結後も古河公方は鎌倉に帰還することなく、基本的には百三十年余にわたって古河に御座所を構え続けたのである。古河が選ばれたことの本質的理由が問われなければならないと考える。その点、次の事実は重要である。

(図2、申叔舟「海東諸国総図」『海東諸国紀』。京都を「日本国都」、関東の古河付近を「鎌倉殿」と記載)


 朝鮮通信使の書状官として来日経験のある申叔舟は、享徳の乱中の文明3年(1471)に『海東諸国紀』を著し、その附図「海東諸国総図」の中で当時の下総古河付近を、畿内の「日本国都」(京都)に対して「鎌倉殿」と記し、同解説では「鎌倉以東に拠りて、叛すること二十余年」「国人之を東都と謂う」と記していた(図2)。李氏朝鮮の議政官申叔舟は、当時の列島住人(「国人」)が、享徳の乱(「叛」)勃発で成氏(「鎌倉殿」)が移座した下総古河を「日本国都」(京都)に対する「東都」、すなわち《東国の首都》と認識していた事実を記していたのである。

 

 私は、京都に対比して古河が「東都」と認識され、その状態が戦国期を通して継続し続けたことの根底的な理由―古代も含めた歴史的前提や背景の地政学的問題―が、成氏の古河移座の背景として諸々問われなければならないと考えている。

 

 

・市村高男「歴史を見る目、地域を見る目」(『古河の歴史を歩く』高志書院、2012年)。以下ゴシックの著者の論文・著書名、「その7」にまとめて記載する。

 

(続く)