初彼岸なので、供養にと昨年の11月に亡くなった義母のことを再掲したいと思います。その1と2があります。よろしかったら読んでみてください。
(義母が生きたこと、その1)
先月の11月20日、午後1時21分、義母(日毛喜代子)が96歳の天寿を全うして亡くなった。
2日前の夕方、本人が風呂に入りたいと言うので、妻(長女)が付き添って入浴させたが、出た後に「胸が押されるようだ」と言い、急に具合が悪くなった。その後布団から起き上がれなくなり、翌々日午前中に救急車を頼んで病院へ行ったが、心筋梗塞の検査中に突然亡くなった。付き添った私と長女である妻、その妹、孫一人に見守られてのものだった。老衰の上での心筋梗塞であった。
(義母の葬儀、11月27日通夜、28日告別式)
葬儀は本人のたっての希望であった家族葬で行った。私の家族ともう一人の娘の家族、本人の兄弟・義兄弟の家族、私の兄のみが見送った。
葬儀は地元の葬儀社が万事滞りなく仕切ってくれた。喪主は同居していた長女の夫である私が務めた。
義母には、義父(哲夫)と一緒になって、35年間も障害のある孫や病気の家族の世話をしてもらった。この両親が居なければ私たち家族はとうの昔に倒れていた。
その言い尽くせぬ長い恩義に少しでも報いるため、私は、会葬者の方への形式ばかりの喪主挨拶だけはしたくなかった。少し時間を貰って義母の歩んだ人生を、親族の方々に述べさせてもらうことにした。これは身内だけの家族葬の良い点だろうと思う。
(娘と孫2人)
(家族でのハワイ旅行)
(家の前の道路の雪かき。義父と義母と孫・祐輔)
私事ながらその時の挨拶の一部を掲載させてもらいたい。
義母は昭和4年、東京の下町・深川に8人兄弟・姉妹の長女として生まれた。家は燃料店を営んでいたが、義母は父が病弱のため、母と一緒になって家族の中心として弟・妹たちの面倒を見ていた。
私の知る範囲では、人生で大きな出来事・変化は3つあったように思う。
その最初の一つは、太平洋戦争の激化に伴う昭和20年2月の縁故疎開であったと思う。
前年の11月から始まった米軍機の日本本土空襲で東京も危なくなり、親戚の勧めがあって義母は、東京に残った父を除き、一家8人と共に父の郷里の現茨城県古河市に縁故疎開してきた。翌月3月10日には下町を焼き尽くし10万人以上の犠牲者を出した東京大空襲があったので、深川から郷里に移ったのは生死を左右する人生の「幸運」であった。
(東京大空襲で一面焼け野原となった東京下町、ネット写真)
仮に日本が戦争をしなければ、義母は東京で女学校を卒業し、郷里とは無縁の生活があったと思う。地元での夫との出会いもなく、私の妻である娘たちの存在もなかったということになる。
実は私の実母も、義母と一歳違いでやはり東京からの縁故疎開で居つき、地元の夫と結婚したという、義母と全く同じ経緯を辿っている。私たち夫婦の生や存在はともに戦争があってのものだった。
戦後は、父も帰ってきてそのまま郷里に居つき、17歳で女学校を繰り上げ卒業した後、小学校の代用教員になった。今ならば高校2年生になったばかりの小娘が小学校の教壇に立ったということである。
戦時中はもちろんのこと、戦後間もない当時は、戦地に行った男たちに代わって女・子供たちが労働力となっていたが、義母の代用教員採用もそのような戦後社会の混乱期の要請という側面があった。小柄な義母は、学校まで自転車で通勤したが、大人用の大きな自転車に前かがみになってしがみつくように漕いでいたと、葬儀の時に親戚の方から伺った。
(夫哲夫と一緒に。アイスを食べている)
大きな出来事・変化の2つ目は、昭和28年に縁があって義父(哲夫)と結婚し、二女を儲けたことであろう。義父は国鉄の職員であったが、義父が夜勤の時は、昼間は義父が子供の面倒を見、そうでないときは近所の知り合いの方に子供を預け、小学校の教員を続けると言う「働く女性」だった。
義母は元来が外で働くことが好きな性分であったが、今のような育児休暇などはない時代であったので、産後2週間目ごろからは仕事に戻り、また校長の権限が強く、勤務時間などあって無きが如くの時代であったため、研究校に指定されたりすると、深夜の1時過ぎまで学校で仕事をしている有様であったという。家で子供の世話をしていた義父はあまりの勤務時間の長さに腹を立て、「学校など辞めてしまえ」と大喧嘩をしたこともあったらしい。私の妻は幼い時に母親に構ってもらえなかったことがトラウマになっており、その時の寂しさをしばしば私にもらしていた。
娘たちが学校に上がった頃はちょうど日本は高度経済成長に入った時期であり、電化製品の普及で家事労働が楽になってきたとはいえ、家庭と仕事の両立は、家庭を大事にする義父の理解と協力がなければ到底続けることの出来ないものであった。義母は義父が55歳で国鉄を退職するまで、37年間教職を続けた。
(学校の学習発表会の指導をしている様子)
(卒業式で。当時は新しく入学する中学の制服を着て卒業式に出た)
義母は、娘たちが小学校に入った30代半ばからは家の近くの都市部の学校に移っていたが、仕事が生きがいで誇りでもあった。そこでの仕事や教え子のことは自慢であり、退職後にはしばしばその話をしていた。担任した教え子の一人に、今は若い人には良く知られている映画監督・特撮監督の樋口真嗣さんがおり、美術指導をしたことを人生の思い出の一つにしていた。次回はそのような義母のした仕事の話をしてみたいと思う。
(樋口真嗣さん)
(続く)








