〈戦国期・小田原北条氏段階の古河城〉
前回まで、戦国時代の古河公方段階の都市古河の実態について見て来ました。天正11年(1583)に最後の公方義氏が死去し、成氏入部以来約130年続いた古河公方権力=古河府は終わりを告げ、古河は、北関東に勢力伸長を図る小田原北条氏の管理化に入ります。つぎにはこの段階の都市古河の様相を見て行きたいと思います。
(図1、小田原北条氏の支配領域の拡大。古河が北条氏(氏康)の支配下に入ったのが天文末期の紫線のライン。薄緑が天正年間の氏政・氏直のライン)
(図2、小田原北条氏段階の古河城下町)
〈小田原北条氏の古河城整備〉
天文9年(1540)、小田原北条氏の当主氏綱は娘芳春院殿を4代公方晴氏へ輿入れさせ、後を継いだ氏康は芳春院殿が生んだ子義氏を天文21年(1552)に後継者にしていきます。外戚となった氏康によって公方権力は小田原北条氏の下に次第に包摂されて行くことになります(図1)。
小田原北条氏は、対外的には、永禄11年(1568)の氏康の三男北条氏照の栗橋城主化と天正2年(1574)の公方重臣簗田氏に対する第三次関宿合戦での勝利を契機に、古河-栗橋-関宿を結ぶ北関東進出の枢軸を確立し、対立する佐竹・宇都宮氏など北関東大名層に直接に対峙していくことになります(図1)。
両勢力の対峙で「境目の城」となった古河城は、栗橋城の北条氏照の指揮の下、永禄10年(1567)頃から公方義氏を介して急速に整備され、天正11年(1583)の義氏死後は在番制が敷かれて、北条氏の支城の一つとして位置づけられるようになっていきます。
この小田原北条氏による公方権力包摂化の中で城下町古河はどのような状況にあったでしょうか。
〈城郭〉
北関東の大名層と直接対峙するようになったこの時期には、城郭域の拡大と整備が見られるようになります。
城郭については、永禄10年(同年比定北条氏政書状)・11年(同年比定北条氏政書状写)に北条氏康の後を継いだ氏政によって普請が計画され、天正8年(1580)には義氏によって武蔵国大室郷以下五郷に人足の徴発が命じられています(同年比定足利義氏印判状写)。
(図3、小田原北条氏指揮による「新曲輪」の位置(黄色)、近世桜町郭の部分ヵ。水色・緑は公方段階からの古河城)
このような中、時期ははっきりしないのですが、天正11年以前の早い時期に、北条氏照の古河城改修の一環として「新廻輪(曲輪)」(同年比定古河足利家奉行人連署奉書)が造成されます。この曲輪は、前代までの曲輪配置やその方位軸の在り方[宇留野2010]、さらに北関東勢に対応する点から見て、近世に桜町郭(丸ノ内郭)と呼ばれた、中城(近世三の丸)の北側部分の可能性が高いと思われます(図2・3)。近世桜町郭の部分は公方時代には家臣居住区と見られますので(本ブログ(7)家臣居住区)、その周囲に堀・土塁を構築し城郭化していったものと考えられます。
また位置は不明ですが、天正2・10年には「御門・橋以下」の整備がなされ(ともに足利義氏感状写)、天正5年(1577)段階では城内に「佐野門」が存在し(史料1、足利義氏条書写『豊前氏古文書抄』))、そこには天正8年段階には「南木戸」が付設していました(史料2、足利義氏古河城中掟書『喜連川文書』)。
〈史料1〉
御仕置之事
一 佐野門(①)物主被仰付事、
一 従敵中動或乗込時節者、佐野門最前罷出、従城中若
輩衆罷出候者(②)、老敷衆致談合、一円可相押候、
但依敵之模様、宿中迄各々被打出(③)、有御仕置
儀も可有之候、其模様者、御書付老敷衆被仰付之
事、
一 於佐野門相押処、不致信用、及喧嘩雑言仁をハ、
各々相談、不顧思慮可申上候、為不忠之間、可被為
切腹事、
以上
丑(天正5年)
七月四日
豊前左衛門佐殿(④)
〈史料2〉
御城内(古河城)御掟之事
一 敵方へ半手諸郷之者共、佐野門・南木戸より内へ不
可入事(⑤)、
右、於城内見合候者、人馬共可取之、其人ニ可被
下之事、
(後略)
〈佐野門の位置〉
「佐野門」は、敵の攻撃に際して城内から「若輩衆」が出て防御する最も外側の地点で(①②)、その箇所を担当する「物主」(責任者、公方家臣豊前氏)が置かれ(④)、また「城中」と「宿中」とを区分し(②③)、敵方の半手諸郷の者を排除する門でもありました。そこには「南木戸」なる出入り口が一体的に存在していたようです(⑤)。
(近世古河城のジオラマ、観音寺郭の部分。古河歴史博物館)
(近世片町の通り(佐野道)の南側の近世観音寺郭にある大手口)
(上の写真の反対側を撮ったもの。北へ白壁町通りが延びる。手前の道は佐野道)
佐野門の位置については、いくつかの説がありましたが、私は、近世古河城の大手門となる近世観音寺郭の北の出入口に比定できると考えています(図2・3、古河歴史博物館ジオラマ他写真)。
その根拠は、まず、門の前の東西の大通り(近世片町の通り)は佐野(栃木県佐野市)へ向かう道筋で、門から先を近世には「佐野道」と呼んでいることです。
また、門から北へ分岐して行く白壁町通りは鎌倉と奥州をつなぐ鎌倉街道中道(奥大道)で、白壁町通り一帯には前述のように公方段階形成の宿町が存在していました。ここは「城中」と「宿中」とを区分する地点としては最も適当な場所なのです。また防御面から見ても、西と北からの二つの大通り(佐野道・白壁町通り)の合流点ですので、城内への敵の侵入を防ぐにも最も適当な場所なのです。これらの立地条件から「佐野門」はまずこの位置で間違いないと考えます。
なお、佐野門があった場所から南側(城内側)をすでに「城中」と呼んでいますが(②)、この近世観音寺郭一帯は、前に述べたように(本ブログ(7)家臣居住区)公方時代からの家臣居住区でした。観音寺郭は江戸時代の初頭、慶長年間(1596~1615)の松平康長段階に囲郭化したとされ(『古河志』)、城郭化するのはその段階ですが、小田原北条氏段階でも、一定の堀・土塁・城門を構え、「城中」と認識された場であったと考えられます。後に観音寺郭が整備され近世古河城が完成する段階で、城の正式の門、大手門になって行ったと思われます。
〈小田原北条氏段階の城郭整備の意義〉
最後の公方義氏段階には外戚小田原北条氏の力が古河にも及び、佐竹・宇都宮氏など北関東の大名層との対立の最前線となります。上記のように永禄から天正年間に掛けて古河城の大改修が為されたことが窺えます。新曲輪の造成が最大のものと思われますが、天正11年の義氏の死去後は北条氏家臣が在番として古河城へ派遣され、北条氏照の重臣間宮綱信などが近世頼政郭に当たる「蔵曲輪」で指揮に当たっています(同年比定古河足利家奉行人連署奉書)。
今まで見て来た「佐野門」は「新曲輪」(桜町曲輪)等の城郭大改修と連動していた可能性があり、小田原北条氏段階のものと見てよいかもしれません。また天正2・10年の「御門・橋以下」の整備も佐野門や「新曲輪」に関するものかもしれません。
いずれにしても小田原北条氏の古河公方包摂化の中で、古河城は佐竹・宇都宮など北関東の反北条勢力との対峙地点(「境目の城」)となり、それまでの公方時代の古河城に大改修が行われたことは間違いありません。またそれは城郭部分に止まらず、北に接する宿町部分も城郭の一部に加えられ、北条氏による防御態勢が整えられていくことになります。その点は次回に述べたいと思います。
※本ブログは拙稿「戦国期古河公方城下町・古河の形成と特質」(城下町科研・北関東研究集会資料集『伝統的武家の城下町』(2017年)所収)を基に、新たに考察を加えたものです)
(続く)





