〈戦国期の古河の港で働く人々〉
戦国時代、古河公方の下で都市古河はどのような実態を持っていたのか、ということで前々回、前回と港津の実態を見て来ました。とくに中心的な港の古河舟渡では、「総合的問」として港津機能を掌握していたと思われる豪商小池氏、川関であったと見られる悪渡・下宮舟津の渡し場では、関所役人であったと思われる地元有力者の茂呂氏を紹介して来ました。
しかし見落としてならないことは、彼らの下で実際に働いていた人々のことです(近世の茂呂氏なども自ら渡船を漕いだのではなく、その上に立つ地元有力者でした)。彼らこそが地域の経済を支え、古河公方権力を底辺で支えていた人々です。そこに目が行き届かなければ本当の歴史は分からないと思います。つぎにその点を考えてみたいと思います。
(戦国時代の古河)
〈近世古河藩の水主たち〉
近世の古河藩で、藩の船舶に関係していた人々の記録があります。それらを「水主」(かこ)と言いますが、近世後期の地誌『古河志』(小出重固著)にはつぎのように載っています。
(「船手水主(ふなてかこ)」)
①城附の者共なれば城主かはりても土着なれば附送りになれり。②寛永年間下野国野渡村にて、各二町ばかりの畑地を与えられ、③房川渡 公務の執事達又は方伯の往来の通船の事を務む。(中略)④伝来の船歌あり。(中略)扨⑤此船歌といふもの、四海のうち音節違う事なしといふ」
(図2、房川の渡しの位置)
(利根川を渡る房川の渡し)
古河藩の水主たちは船の漕ぎ手でもあったので「船手水主」と呼ばれていましたが、藩の渡船業務に従事する存在でした(③)。元来が古河土着の城付きの存在で、藩主が転封(領地替え)になってもそれに付き従わず、異なった藩主にも代々仕えたようです(①)。また彼らは、近世初頭の寛永年間に下野野渡村に2町歩ほどの土地(役料)を与えられて藩の組織に組み込まれたようで(図1、②)、仕事は、房川渡しで、幕府役人の通行や大名の参勤交代の通行の渡船業務を任務としていたようです(③)。房川の渡しとは江戸と奥州をつなぐ日光街道・奥州街道の利根川の渡船場で、古河のすぐ南側にあります(図2、写真)。有名な幕府の栗橋の関所もあったところです。また伝来の「船歌」を謡うという独自の習俗を持ち(④)、その「船歌」の音曲は全国に共通するものであった(⑤)、ということが分かります。
この水主については、昭和の初めに地元の千賀覚次氏によって記された回想録『古河藩のおもかげ』にも詳細な話が述べられています。
「水主のもの」
①水主長屋とは此者の住居で、厩町の南寄り西側に五戸ずつ二棟と四戸の一棟となって、十四戸があったのである。
②御船は平生は御船庫に納めてあって(中略)必要の都度、御船奉行(御目付が兼帯する)が出張監督の下に、水主の者が中田の渡し場に回漕するのであって、御船は十二挺艪(長さ十二間)と八挺艪との二艘で、何れも白木屋形造りであった。
③(中略)屋形船には黒地に白く土井家の定紋六本柄杓を打った黒白のだんだら幕を引きまわして、大名と少数の者がこれに乗り、其他は渡場の小船で渡したものである。
④船謡は所望によって水主の者が謡うので(中略)、毎年正月二日には、御船の乗り初めがあって、晴雨に拘らず御船奉行が乗り込まれて、朝八時ごろ茂平河岸から船装いして、前屋辺りまで川筋を下り、さらに大巻辺りまで上ったもので、水主の者が今日を晴れと船謡をうたい、艪拍子を取りつつ勇ましく船を操るので、之を見んとする家中の子女並に一般の見物で、土手を埋めたものであったと。
上の回想録は幕末ごろの古河藩の様子を記したものですが、まず水主たちはまとまって厩町通りの一番南の西側に長屋を与えられて住んでおり、全部で14戸あったことが分かります(①)。業務は、大名の参勤交代のとき、平素は藩の船倉庫に置かれている屋形船を房川の渡しまで回送して渡すもので(図2、写真)、他に小船も利用したことが書かれています(②③)。舟歌は大名の所望によって謡うのですが、他に正月二日には「乗り初め」の儀式もあり、そこでの船謡は見事であり、古河家中のみならず一般の人々の耳目を集めるほどの古河の風物詩であった(④)、ということです。
(古河藩の船手水主たちが奉納した大絵馬、古河市指定文化財)
この渡船を担った水主の詳細については、江戸時代も史料が少ないためよく分かりません。ただ享保7年(1722)に古河町場の鎮守であった雀神社に水主たちが奉納した大絵馬(縦124cm、横170cm)が残されています。そこには水主たちが操舵した渡船の御座船が描かれており(現在のものは後に修復)、奉納者として「御船手」と記されています。「御船手」とは水主のことです。
これほどの大絵馬は相当の財力がないと作れなかったはずで、水主たちが「長屋」に住んで藩御用の渡船業務だけで生活をしていたとはちょっと考えられないのです。絵馬はその後古河船渡河岸の河岸問屋(井上家)に伝わっていますので、水主たちは藩の渡船業務とは別に、河岸問屋と結びついて年貢や一般商品などの運送なども行っていたのではないかと思われます。またこの絵馬は思川で繋がる下野国網戸村の有力者の寄付板の上に同地の絵師が描いたもので、川を使った日常業務での結びつきを想像させます。
〈近世社会の成立と古河藩の水主〉
ここで戦国時代の古河舟渡や悪戸・下宮舟津の渡船場との関連性を想像させるのは、なによりも近世古河藩の水主が「渡船業」を行っていることです。これは悪戸・下宮舟津の近世渡船業者茂呂氏と同じであり、両者は全く無関係とは考えられず、古河藩の水主も茂呂氏と同じように戦国時代にまで遡り、古河公方の下で経済活動をしていた存在ではなかったかということです。
また古河藩の水主たちは藩から役料として野渡に2町歩の土地を与えられていましたが、茂呂氏の祖先の戦国期茂呂但馬守も同じ野渡に1反余の田地を預けられているのです(茂呂家文書)。これも同じ存在であることを示唆します。近世古河藩の水主たちが、茂呂氏などの渡し守、関所役人、ひいては水運業者の系譜を引く者と見ることが出来るのではないでしょうか。
近世初頭の寛永年間に役料を与えられて房川の渡しの渡船業務についたという『古河志』の話も、江戸幕府の諸制度が完成するのが寛永年間であることを考えれば、戦国時代の在り様が江戸幕府によって否定され、体制内に組み込まれた結果と見ることが出来ます。
(古河と那珂湊の位置)
〈「川の民」の民俗的世界〉
また注目したいこと独特の歌謡をもつこれら水主たちの在り様です。上の『古河志』には1月2日に乗り初め儀式を行い、そこで謡われる歌について「此船歌といふもの、四海のうち音節違う事なしといふ」と、音曲の全く同じものが全国各地で歌われていたとありますが、太平洋に面する水戸藩領最大の港の那珂湊(茨城県那珂湊市)の水主たちにも船歌(同一かどうかは不明)があり、乗り初め儀式を同じ1月2日に行っています(『水門志』)[内山2002b]。ここからは普通史料には現れてこない、民俗的世界の共通性と広がりを想像することも可能となって来ます。
〈中世社会の特質と「川の民」〉
ところで、戦国時代に限らず広く中世という時代は、古代(律令体制)や近世(幕藩体制)のような統一的な体制は存在しませんでした。そこでは支配する公家や武家・寺社などは、それぞれ法と秩序を別にする権力として独自に分立し、またその下では、いくつもの社会集団が重層的に存在していた社会だと言われます(桜井英二『日本中世の経済構造』岩波書店など)。「いくつもの社会集団が重層的に存在」というのは、たとえば非農業を主とする海賊(海の民、川の民、漁業)や山賊(山の民、狩猟)、商人・職人などの存在であり、それらは、朝廷や幕府・寺社・大名など上級権力に従いながらも、独自の社会集団として自律的・自力的に活動し、主に流通・交通・商業・鉱工業など非農業的部分を担っていたといいます(桜井上記論文)。
この中世社会の質ということを念頭に置けば、近世古河藩の「水主」たちは元来「川の民」とも呼ぶべき独自の社会集団の性格を色濃く持ち、古河公方権力に従いながらもかなり自律的・自力的に活動を行い、渡船業に止まらず、流通・交通、商業など関連する職種に複合的に関わっていた存在ではなかったかという想像が出来るのです。全国に共通する「船歌」を持ついうことは、全国にまたがる「川の民」の広いネットワークが存在し、権力とは一定の距離を持ちながら広域的な活動を行っていたのではないか、という想像です。それが、近世幕藩体制の成立の中で、例えば茂呂氏は「渡し守」に職能が制限され、古河の川の民たちは古河藩の渡し船を操業するだけの存在=水主として古河藩に取り込まれて行ったのではないか、という想像です。
次回は悪戸・下宮舟津の渡し守茂呂氏の民俗的世界を負う少し見てみたいと思います。
(続く)




