70過ぎまで生きて来ると、人生は「運」なのではないか、と思います。良きにつけ悪しきにつけ、振り返れば「運の不思議さ」ばかりです。
私の父親は不思議と運の良かった人です。物事にこだわらず、他人に深くかかわらず、透明感のある人でした。
彼岸も近くなり、前に書いたものを再掲したくなりました。お読みください。
(以下、再掲)
口数の少なかった父は、一方で「ものごとにこだわらない」、他人に干渉しない人だった。私は父に叱られた記憶があまりない。
私の双子の兄は、頭脳明晰ではあるが、口うるさい母親似である。私は、半分は母親、半分はこの父親に似ている。
〈父の書〉
(父の書。「観世音経」の一節)
父は、雅号を「竹堂」と号し、書をたしなみ、師範免許を得て他人に教えていた。郷里には父の書を彫った碑文などがいくつか残っている。母は、父の書を「癖のある字」だと貶していたが、毎年2月ごろになると、頼まれてよく学校の卒業証書などの名前書きをやっていた。父の書は周囲から当てにされていた。
(海軍筑波航空隊時代の父、17歳。昭和19年。父は軍国少年で、志願兵であった)
父は、戦時中、本来ならば一兵卒として硫黄島に派遣されるはずであったが、隊の上官が父の書を見て自分の傍に置くことにし、内地に留めた。父は硫黄島に行かずに済み、本来ならば戦死するところを、運よく生き延びることができた。
2年前に95歳で亡くなったとき、喪主の兄が参会した方たちに、私たち兄弟や孫たちが今ここにあるのは父の書の技量のゆえであったと、お礼の言葉の中で述べていた。父の書の上手さが私の「生」の前提になっている。
(復員した後、郷里の水木浜海岸んで(中央)。20代前半)
(水木浜での海水浴で、父38歳、私10歳、昭和39年)
(海水浴で。父(左)、兄(中)、私(右)。父41歳、私中学1年、昭和42年)
〈ハンサムな父〉
若い時の父は、そこそこハンサムであった。母が父に惹かれたのもそこにあったようである。母は口うるさかったが、「口数の少ない」父とは釣り合って仲の良い夫婦であった。
二人は、当時はそう多くはなかった恋愛結婚で、市役所の同僚同士の職場結婚でもあった。戦時中、東京から縁故疎開し、そのまま居ついた母に、父が「都会から来た娘」ということでちょっかいを出した、それが付き合いの始まりであった。そんなことを母が自慢げに言っていた。仲の良さは、そういう関係にあったからと思う。
(結婚前の父母、左上が母)
父は、若い娘さんを始め女性には好かれる性質(たち)であった。優しい目と、「ものごとにこだわらない」、他人に安心感を与える人柄のせいだったのだろうと思う。しかし、時にそれが災いして、母の嫉妬を招くこともあった。
私が小学生高学年の頃に、母が、何枚もの、父と同僚の若い娘さんが二人きりで写っている写真を見つけ、取り乱し、激しく口論していたことを憶えてる。むろん、父のことだから何もなかったはずである。後年には、私の家内や兄嫁からも「お義父さん、大好き」と言われる、そんな人であった。
父がその後、職場で係長になり、初めて部下を持ったとき、家に部下たちを呼んで麻雀をやっていた。初めての役付きで、仲良くやっていくための方策だったのだろうと思う。しかし、税務の仕事で外回りをしていたとき、まだ勤務時間中にもかかわらず家でやっていたことが知れて問題となり、それ以来出世の道からは外れたようだ。父の「ものごとにこだわらない」(いい加減な)性格が裏目に出たのである。母は懲戒免職になると思って、泣きながら父を誹り、私も、当時通っていた水戸の私立中学を辞めざる得ないかもと、暗澹たる気持ちになったことを憶えている。
〈年老いた父〉
父は60歳の定年退職後、わずかばかりの畑で母と農作業をやっていた。そのときの母の「句」がある。
春耕の 定年の夫(つま) いきいきと
(『陽子句集』)
母も、年老いた父の長年の労苦を想っていたのである。
(近くの浜辺で。浜遊び)
もう20年もたってしまったが、その年の冬に入ったころ、母は風呂場で突然倒れ、父はそれを独り看取った。心臓麻痺であった。仲の良い夫婦の、二人きりの突然の別れであった。
葬儀の後、母のいなくなった居間で父は、「人間なんて、あっけなく逝ってしまうもんだな」と独り言ちをし、その後ふっと顔を上げて「陽子はいい女だった」と、私たち息子に漏らしたのは驚きだった。いつもの親の顔とは違う、「男」の心の裡を垣間見た思いだった。その後、父は母の写真を家の至る所に置いていた。
(父退職後の伊勢への旅行で、父64歳、母61歳)
2年前の秋に、長く独りきりであった父も、デイサービスの施設でコロナに罹り、思わぬ経緯で亡くなった。「百歳までは」と言って面倒を見ていた兄はひどく落胆した。
〈運のよい人〉
父は「運のよい」人である。硫黄島に行かず、生き残り、フィリピンで戦死した兄に替わり家を継いだ。妻や子供・孫に恵まれ、95歳の長寿を全うした。人柄がそうさせたように思う。
(孫たちと)
字はその「人」を表すというが、父の書はどれもすっきりしていて「ハンサム」である。
私の字は父のそれとは全く別物である。
私が、半分は父親似だと思うのは、間違いなのかもしれない。70歳の老齢になっても、父のような「ものごとにこだわらない」人間には、到底なれていない。
(以上、再掲でした。でも不思議な人だったな。本当に自分の父親だったのだろうか・・)








