〈戦国期・公方時代の町場〉
前回は公方家臣の居住区の問題を見て来ましたが、今回は町場の問題を検討してみたいと思います。
古河公方の時代、都市の人々の生活を支える「町場」はどのようなものだったのでしょうか。具体的には、場所は何処にあったか、また規模はどの程度であったか、さらに商人・職人などの住民にはどのような職種があり経済活動を行っていたのか、またその他の都市と比べてどのような特性があったのか、などです。
なおこれについても、家臣居住区の問題同様、諸説あって定説を見ておらず、それらを比較しながら私の考えを述べてみたいと思います。(なお町場の呼称については、ここでは「宿町」と表現していきます)
〈古河の宿町を考える場合の前提〉
この問題を考える場合、私が前提としておきたいのは、家臣居住区のところで見たように、新たな関東支配の政庁=古河府の成立で、おそらくは数千人には上る人々の流入があったということです。
戦国期の古河の宿町は、それらの急増した都市人口を賄うため、相当の規模の町場と様々な商職人(商業・手工業者、金融業者など)の活動、それと人や物が行き交うため港津、宿場などの交通機能の発達と、そこを業とする運輸業者、宿泊業者などの新たな展開があったと予想されることです。
これらの状況は、中世都市古河に旧来の都市機能では対応できない大きな構造的変化をもたらしたはずで、新たな関東の政庁に対応すべく一定の「都市改造」が為されたのではないかという想定を生みます。このような前提に立って話しを進めて行きたいと思います。
〈宿町についての2つの説〉
まず商職人の居住する宿町地域の位置について考えてみたいと思います。これには、大きくは2つの説があります。
(図1、古河宿町の位置についての2説)
最初に宿町に言及したのは『古河市史通史編』(254頁、1988年)でしたが、そこでは、私が前回、家臣団居住区と指摘した近世桜町郭から観音寺郭にかけての一帯が町場であったと見ています(図1)。この見方は十分な検証がされずにその後もそのまま継承されて来ています[古河歴史博物館2010][宇留野2010][市村2022]。これを以下「古河市史説」とします。
もう一つは、前回も取り上げた中嶋茂雄さんの説です([中嶋1984]。中嶋さんは近世観音寺郭のさらに北に位置する旧町名では厩町・仲之町・白壁町一帯をそれと想定しています。ここは、古くから鎌倉街道中道(奥大道)も通過しているところで、町場としての条件を持っています[内山2011]。私も中嶋さんと同様の考え方で[内山2011]、これを「中嶋・内山説」としておきます。
まず古河市史説の特徴ですが、なによりも確実な史料的根拠を挙げておらず、想定に過ぎないという根本的な問題があります。想定の拠り所は、近世桜町郭の城内河岸であった茂平河岸(『古河志』)を戦国期公方段階の港津と見て、そのまま背後の桜町や観音寺町を町場としているものですが、前回も述べたように戦国期の港津は「舟渡」(船渡河岸)であり、また前々回も述べたように、桜町郭の部分は南北朝・室町期の野田氏段階の町場で、観音寺郭の部分も含めて戦国期公方段階に入ってからは家臣居住区に改変されたと考えられるのです。確実な史料的根拠を挙げていないと言う点で古河市史説には問題があるのです。
〈中嶋・内山説の根拠〉
では中嶋・内山説の根拠を挙げてみたいと思います。
まず史料としては近世地誌『古河志』が引用する『小山家記』の記述があります。そこには「是迄の町家、侍小路となり、今の町家は其時の替地也、元和六年庚申の事とみゆ」と記されています。
意味は、元和6年(1620)に古河に入った近世大名奥平忠昌によって新たな町割り(都市改造)が実施され、それまでの「町家」(宿町)が現在地に移転させられ、替わってそこには新たに「侍小路」(武家地)が出来たと言うものです。ここからは、戦国時代までの宿町は江戸時代の武家地のところにあって、それは「小路」状であったということが分かります。
(図2、古河藩士の家禄と空間配置(近世末期)、『古河市史民俗編』より)
ここに見える旧宿町の「侍小路」とはどこでしょうか。
近世古河城下町の武家地は大きくは、重臣・上級家臣層を中心とする三郭(桜町郭・観音寺郭・諏訪郭)内の居住区と、郭外北側の、一般家臣層を中心とする厩町・仲之町・白壁町・代官町一帯他に分けられます(図2)。
「小路」との記述からは、大身の屋敷が集まる前者とは考えにくく、小路で区画された後者の中小規模の屋敷地と見るのが適当となってくるのです。『小山家記』に従う限り、元和6年以前の宿町はこの地であった可能性が高いということになります。
(図3、宿町と港津図。上の茶色が宿町。3本の通りから成る)
ではこの地が間違いなく戦国時代の宿町だったのでしょうか。もう少し詳しく見て行きます。
この一帯は、少なくとも南北の三本の通り(厩(うまや)町・仲之町・白壁町通り〈東・西代官町を入れると五本の通り〉)とそれと交差する東西三本の通りで区画された街区状の都市空間です(図3・4)。現況は近世武家屋敷地として整備された状況を示してます。
(現在の白壁町通り。これが戦国期古河宿町のメインロード)
まず通り名から見て見たいと思います。
最初に三本の通り名の最も西の「白壁町」ですが、この「白壁」という名称は、火災除けのための漆喰で造られた蔵をイメージさせるもので、江戸時代も一般に商人屋敷に見られるものです。先の『古河志』にあるように江戸初期にはこの地は武家地になっていますので、その時期のものではなく、戦国時代に遡る町名の可能性が高く、当時の商人地=宿町であったことを想像させます。この白壁町通りは中世の鎌倉街道(奥大道)でもありましたので[藤掛静也「古河郷土史資料」][内山2011]。元来は主要道に沿った町場を起源とすると思われます。
(宿町の3本の通りのうち最も西側の厩町通り。左側の家の辺りに「厩」があり、馬借たちの集住地と推定される)
つぎに最も東側の通り「厩(うまや)町」通りですが、近世藩政期の藩の「御馬屋」由来とされますが(篠原静男「市内町名由来記」『古河市史料集第一集』)、後で述べるように、公方段階には、交通業者の馬借(ばしゃく)とも重複する豪商小池氏の一族・小池弥右衛門の「厩舎人(うまやとねり)」「厩衆」(天正4年「足利義氏官途状写」)の存在が確認でき、この周辺に住んでいた可能性があって(本ブログ(9))、戦国期以来の地名の可能性があります[内山2002]。
両通りに挟まれた「仲之町」もその名から想像できるように白壁町・厩町と同時に形成された町名を示していると思われます。
白壁町の東に位置する「東・西代官町」も小路の一部に含まれますが、この名称も戦国期由来の可能性があります。近世初頭の奥平氏藩政期に代官の屋敷があったと言う推測もありますが(前述篠原論文)、確実な史料はありません。それよりも、戦国末期の史料に「古河宿中代官」「代官所」が確認出来るのです(天正10年「足利義氏補任状写」、同「足利義氏宛行状写」)。戦国期には「古河宿」、つまり古河の宿町を管理した代官が存在し、この場所に居て、それが地名由来となった可能性が考えられるのです。そこから東・西代官町も当時の宿町の一部を形成していたと見ることも出来るのです。
このように見て来ると、三本の通りの町場と東の東・西代官町あたりは戦国時代に遡る宿町の可能性が十分に考えられるのです。
〈計画都市・戦国時代の古河〉
(図4、古河公方段階の都市古河の様子。最も北の緑色のところが宿町)
このように見て来ると、この古河宿町は、少なくとも三本の道筋に出来た宿町で、それもかなり大規模な町場であったと見ることができます。
実は不十分ながらそれを裏付ける記述が近世の地誌にあるのです。近世地誌『古河志』が引く地誌『光隆記』に載る話なのですが、そこには、公方成氏は子政氏の出産に際し安産祈願のため68985坪の「古河町地子免除」を行ったとあります。「古河町地子」とは古河宿町住人に課す地代のことですがそれを免除するということです。ここから公方成氏段階の古河の宿町は約7万坪近くあったということになるのですが、この坪数は三本の町場や代官町の面積を超えた規模になります。戦国期に「坪」との表現があったかどうか疑問は残りますが、成氏時代の古河宿町の規模の大きさを近世に入って伝承したものではないでしょうか。
なおこれらからは、古河の宿町の特異性が想像されます。
後北条氏の小田原[佐々木2024]や朝倉氏の城下町一乗谷[小野1997]、大友氏の豊後府内[小野2022]など早くから街区状の都市計画が見られる例もありますが、戦国時代初頭の東国の戦国期城下町の宿町の多くは、まだ城下を通る道沿いに自然発生的に出来た一本街村状の町場でした(戦国末期・織豊期になると街区状になります)。それに対し、古河の町場景観は少なくとも並行する三本の通りを持つという規模の大きさと、そこには街区という人為的造作(都市プラン)の存在が看取できるのです。これは、まさに前回見たところの、鎌倉から集団移動した家臣団居住区の規模や形成過程に対応する在り方といえるのではないでしょうか。それらの人々の経済的需要に応えるためにあらたに造成された町場ということです。
なお補足すれば、新たに都市造営で出来た宿町というこの見方は、町場の鎮守である雀神社の移転の問題からも妥当性があります。
前に述べたように雀神社は、町場住人の鎮守として南北朝末期に野田氏によって近世岸桜町郭の茂平河岸に勧請されたものでしたが、いつの時期にか現在の厩町に移転されてきていました(図5)。これを『古河市史通史編』は藩主松平康長による現社殿造営に併せて慶長10年(1605)のことと見ていますが、戦国期古河公方成氏の時期のこと、とくに都市改造に伴うものと見るといろいろなことが整合的に理解できるのです。
(古河雀神社。現在厩町通りの脇に鎮座)
(図5、雀神社の移動。桜町郭の茂平河岸から厩町に移転)
まず、公方成氏によって家臣団居住区が近世桜町郭・観音寺郭・諏訪郭一帯の新たに造成されたという私の見方からすれば、それまで町場であった桜町郭の町場住人はどこかに移動させられたはずです。それは鎌倉や古河周辺地域から新たに移って来た商職人などと共に、新たに造成になった厩町~白壁町一帯に移動させられていったものではないかと想定されます。当然町場住人の精神的紐帯であった茂平河岸傍の雀神社も移動となったはずで、そこに厩町雀神社の移動の理由を考えることが出来るのです。
さらに補足すれば、戦国期の都市住人の実態も挙げられます。すでに成氏の時代の古河には、新田の領主岩松尚純の古河出仕を聞きつけ宿所に参上した「公方雑色・力者・輿羿・厩方」などの「公方者」(実態は通信・交通業などの都市民)や「座頭・舞々・猿楽」「上﨟」などの芸能者・遊女の存在が知られています(『松陰私語』)。彼らの多くは鎌倉から移ってきた者でしょうが、職種から見て町場に住んでいた可能性の高い人々です。ここからは、早い時期から古河には都市住人層における社会的分業の進展と都市的賑わいが存在していたことが分かります。これはやはり宿町の規模や公方城下町の出来方に由来するものと思われ、複数の街区状からなるこの一帯の住人と見れば理解しやすい事態なのです。
以上戦国期公方段階の宿町の様子を見て来ましたが、これらからすれば古河市史説が想定する近世桜町郭~観音寺郭一帯が宿町であったという見方は誤りとせねばなりません。古河公方の移座という歴史的事態に対応して中世古河の都市景観は大きく改変されたのです。
※本ブログは拙稿「戦国期古河公方城下町・古河の形成と特質」(城下町科研・北関東研究集会資料集『伝統的武家の城下町』(2017年)所収)を基に、新たに考察を加えたものです。
(続く)








