〈南北朝・室町時代の古河、鎌倉府の拠点〉
1333年に鎌倉幕府が倒れ、建武政権の下、古河が位置していた下河辺荘も北条得宗家から足利尊氏の手に移り、その後、室町幕府の成立によって、関東10か国を管掌した鎌倉府の直轄領(御料所)となって行きます。時代は南北朝の内乱時代に入って行きます。
(図1、南北朝期の下河辺荘と古河、鎌倉府、小山氏の位置)
鎌倉府の直轄領(御料所)は、鎌倉の周辺一帯と関東の中央部の2か所に集中していましたが、下河辺荘は関東中央部の直轄領のうちでも西に接する大田荘とともに重要な位置を占めていました(図1)。
しかし北関東下野(栃木県)の伝統的豪族で、古河の北に接して「外様」大名に位置づけられていた小山氏は、大田荘や下河辺荘に勢力を伸ばし、南北朝後半には鎌倉府と対立を深めていました。結果的には小山氏は、小山義政の乱(1380~82)、同若犬丸の乱(1386~97)で滅ぼされ(のち再興)、南北朝末期には鎌倉府は安定的な体制を確立します。この段階の古河の様子がいくつかの史料に出て来ます。
〈鎌倉府軍の駐屯地古河と奉公衆野田氏の入部〉
下河辺荘は、小山義政の乱の後の至徳3年(1386)5月に、室町幕府の将軍義満の介在で小山氏の手から鎌倉公方の足利氏満に帰属することになりますが(『頼印大僧正行状絵詞』)、新たな支配のため古河には、府の奉公衆(直臣)であった下野の簗田御厨(みくりや)野田郷の武士・野田氏(等忠)が入部してきます(図3)。
同年5月に勃発した義政の遺児・若犬丸の乱においては、古河は足利氏満軍の駐屯する「御陣」と見えてきます(『頼印大僧正行状絵詞』「島津政忠軍忠状写」)。
すでに古河は、南北朝内乱初期の暦応3年(1340)7月に、常陸小田の南朝北畠親房を攻める北朝足利方の高師冬軍が「逗留古河辺」(「北畠親房御教書」)し、観応元年(1350)10月には北朝方武士が常陸信太荘へ向かうため「古河馳参」(「志村親義著到状」)する軍勢の集結地点となっていました。また、応永3年(1396)の小山若犬丸の再蜂起の時も鎌倉府軍の結集する「古河御陣」と見え(「烟田重幹軍忠状写」など)、後の応永30年(1423)の常陸小栗の乱でも鎌倉府軍の「古河御陣」(「鳥名木国義軍忠状」など)と現れてきます。
これらの事実から古河は、一貫して北関東勢に対峙する足利方(鎌倉府)が陣を構える軍略上の要地であったことが分かります。
古代の古河は、蝦夷戦争の時に東北を征圧する畿内・律令国家の拠点の一つでありましたが(ブログ(その2))、南北対立の地域構造を同一としながら、南北朝期には北関東勢力に対峙する南関東・東国政権の拠点として立ち現れて来たのです。
(図2、南北朝末~室町時代の古河と都市の様相)
なお鎌倉府軍の駐屯した「陣所」の位置は何処だったでしょうか。
それは、公方氏満の在陣の時、古河対岸の向古河の火災の焔を受けていることや(『頼印大僧正行状絵詞』)、のちの結城合戦(嘉吉元年・1441)に際し古河城に立籠った「古河住人」野田右馬助が「船に取乗」(『鎌倉大草紙』)って落ち延びて行ったことからも、渡良瀬川に接する鎌倉期の立崎館の地を継承したものであったと思われます。
「御陣」と野田氏居館との具体的関係は不明ですが、南北朝内乱や小山氏の乱の軍事的緊張の中で野田氏の居館が要塞化(=館城化)し、そこを陣所の中心として行ったことは十分に想像できるところです。
なお至徳3年の公方氏満軍の在陣は4か月の長期に亘っています(『頼印大僧正行状絵詞』)。それが可能であったのも、古河が軍略上の要地であった上に、古代以来の関東の二大河川交通を跨ぐ物資集散の港津として、兵糧米他諸物資を容易に調達できる商業や都市的発展があったからと思われます。
(写真1、現在の古河市雀神社(左上)と佐野市高橋の雀神社(右下))
〈南北朝~室町時代の都市古河の様子〉
この時期の古河の町場の位置や実態はどうだったのでしょうか。それを直接示す史料はないのですが、類推させるものがあります。それは、近代には古河の惣鎮守となる「雀神社」(写真1の左上。伝豊入城命勧請、祭神大己貴命他二柱)の伝承です。雀神社は、現在の厩町(うまやまち)通りに鎮座する以前は、別当寺の真言宗神宮寺と共に、右の「御陣」に近い江戸時代の「茂平河岸」(桜町郭の城内河岸)に所在したと伝えています(小出重固『古河志』、図2)。
江戸時代の雀神社は、厩町一帯が江戸時代初頭の新たな町割りで藩の家臣の住む武家地となっても、その祭礼(夏祭り)には武家は一切関わらず、町人たち町方の当番制で行われ、神輿も町方のみを廻るものであったといいます(千賀覚次「古河藩のおもかげ」『古河市史資料別巻』)。ここから雀神社の元来の性格が、古河の町場住人の鎮守で、それは江戸時代以前に遡るものであったことを示唆します。
これは、この時期の古河の町場を考える場合のポイントになります。つまり、元地とされるア)茂平河岸一帯の様相と、イ)そこへの雀神社の勧請の歴史的背景が問題となってくるのです。
ア)についてはすでに、近世以前に遡る勧請地とされる点から、鎌倉期からあった南側の立崎の「古河の渡」と同様、対岸の向古河への渡河点にできた奥大道(桜町通り)沿いの河港で(図7)、背後の町場「桜町」と一体的な渡河集落であったと見られています(『古河市史通史編』)。
イ)については、近世の地誌では、出雲大社からの祭神勧請との社伝や下野雀宮駅明神勧請との里俗もを紹介しながらも、それらは必ずしも根拠はないと記しています(小出重固『古河志』)。
その点、この時期の問題として注目されるのは、先に触れた南北朝末期の、鎌倉府による下河辺荘再支配に伴う奉公衆野田氏の入部=「古河住人」(『鎌倉大草紙』)化と雀神社との関りです。
(図3、簗田御厨の野田郷・高橋郷と古河の位置関係)
野田氏はもともと下野簗田御厨内の野田郷を苗字の地とする足利氏の根本被官で、入部前からの本領には野田郷とともに同御厨内の高橋郷がありました(図3、弘治三年ヵ五月廿三日付「足利義氏安堵状写」)。両郷は渡良瀬川を挟んで立地する位置関係にあり、野田郷は「高橋郷野田」(『鎌倉大草紙』)とも記されて、両郷は一体的な関係にありました。
注目すべきは高橋郷の現在地の栃木県佐野市高橋に、嘉暦3年(1328)創建とされる「雀神社」(祭神・豊城入彦命)が鎮座していることです(写真1の右下)。とくに立地場所が古河の茂平河岸と同様、渡良瀬川の川縁であり、祭神も「豊城入彦命」で共通しているのです。
すでに千葉大学の佐藤博信さんは、「雀」は「鎮め」の転訛と見て、野田氏の古河入部・荘経営の背景に野田・高橋郷経営での氏の特性=渡良瀬川の治水技量を想定していますが[佐藤1989]、高橋郷の雀神社の性格は、そのような鎮(しずめ)=水害避けの鎮守を基本としながらも、隣接地に「奥戸」(奥津=渡良瀬川最奥の河港)の地名が残るように(図3)、日常的には河川交通業者=「川の民」の経済活動を鎮守する性格も併せ持っていたと考えます。事実、近世では奥戸やそこに接する高橋郷・野田郷にも渡良瀬川の河岸(かし)が存在していました(図3、『栃木県史通史編4近世』)。
これらから推測すれば、古河の雀神社は、新たな荘経営・地域支配に臨む野田氏によって、古河の立地条件(河川治水・交通)に通ずる本領高橋郷の鎮守を勧請したもので、とくに茂平河岸への勧請は古河の港津・交通支配も意図し、氏の属性と一体的な高橋郷・野田郷など渡良瀬川の「川の民」の経済活動と密接に繋がるものではなかったかという見方を促します。
その点、ア)で見た茂平河岸・桜町の町場としての性格は、これら渡良瀬川の「川の民」の交易・交通活動との関りで理解できるものであり、近世まで町場の鎮守として継続する雀神社の性格と始源をそこに見ることができます。
さて以上のような推測が可能とすれば、南北朝・室町期の都市古河の様相は、南北朝内乱・小山氏の乱などによる立崎居館の城館化の進展と、それと連動した河港=「茂平河岸」を核とする新たな町場=桜町の成立と捉えることができるのです。その重要な画期が南北朝末期の鎌倉府奉公衆野田氏の入部=「古河住人」化であり、とくに茂平河岸への雀神社の勧請・遷座は、野田氏の町場・港津(河川交通・流通)支配と密接に関わる問題であったと捉えることができます。
また鎌倉時代の立崎の渡河点は当然残ったでしょうが、集落そのものは居館の城館化と拡大で多くが茂平河岸・桜町通りに移り、茂平河岸が中心河港として機能していったことも推測させます。
さらに立崎居館の北部に河港と町場が形成されたことは、御陣化に伴って城館領域も北部に拡大し、鎌倉初期の下河辺氏の居館と伝える近世古河城本丸・二の丸部分(ブログ(その3)に止まらず、桜町に接する三の丸あたりまで城館として取り込まれたことも想像させるものなのです(図2)。
(続く)



